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 鹿島は永久や半永久という広がりにまつわる概念を愛しすぎるあまり、有限な時間を羅列するという連綿れんめんたる生に鈍感であった。ようは、死というものを先取りし感性に同一化させることに、慣れ切っている。生というものを思考すると、すぐに死というファクターを導入し、方法論として成立させようとする。そして思考の極端化は、すぐに詩的な感覚へと転化し、鹿島自身を泥酔させる。


 読者は覚えていないかもしれないが、鹿島はカレン・オーの詩を読んでいた。カレン・オーは、さぎの師であるハーフナー・ヴァン・デ・ホン・エッゲンシュタイナーとの対談において、次のような死生観を語っている。


   ――――――


 死から逆算して生を語るという哲学は、わたしには欺瞞ぎまんに思えるのです。死というものが必ず待ち構えている、生は一回きりである、というようなことを、自明のものとして扱いすぎている。実際は、死はどこかへ逃げてしまうかもしれないし、未来のある時点において生は幾度となく繰り返されるかもしれない。


 これは空想ではない。一秒後には物理学の定説がひっくり返っているかもしれない、地球は数分前に生まれたかもしれないという、そうした議論を荒唐無稽だと言うひともいるけれど、この「かもしれない」を「かもしれないことはない」と明確に反駁はんばくすることができないという事実を、あまりにも無視している。


 だからわたしは、死と生は、いつ起こるか分からないという点において、仲良しだとは思うけれど、死と生の意味が覆ったり消失したりする可能性、言い換えるなら、ふたつの概念の逃避行が起こるかもしれない、という余地を確保しないのは欺瞞だと言っている。


 これが、わたしとの決定的な対立軸と言っていい。可能性はどこまで拡張することがというその線引きにおいて、わたしたちは分かりあえない。


   ――――――


 しかし彼女は、ハーフナーの「死後に死者が生者に変わる可能性まで認めるのか」という反論に対しては、明確に答えなかった。かろうじて「宗教religion地域region」に言及しているに過ぎない。しかしカレンの――ことさら、文学的に新たな表現を模索しようとしていたころのカレンの、こうした思考は、鹿島に影響を与えなかったらしい。彼はあまりに悲観的に彼女を解釈している。


「雪国にいる彼女のところへ戻る途中に、凍え死んでしまうかもしれない」

「だったら、冬が過ぎるまで待てばいいのに」

「彼女が南にくだってしまえば、二度と探すことができなくなるから」

「もう、とっくにいないかもしれないのに」


 鹿島は、莉緒の母親を抱いたことを思いだした。というより、いまもなお、抱き合おうとおもえばいつでもできるのだ。あの抱き心地ほど、灯夏に似ていないものはない。だからこそ、奔放であることができた。月光と陽光が同一のものを同時に照らすことができないように、絶えずべつの影を――べつのを気にしなくてすむのだ。


「いつからレスになってしまったの?」

「抱いてみて、分からなかった?」

「分かるけど、あなたの口からききたい」

つんなら言ってあげてもいいけれど」


 彼女は答えを言う前に、もう残りの少ないゴムの袋を切った。彼はそんな彼女を憐れみもしたし、自分もまた憐れまれているのだと切に感じた。


   ――――――


 筆者はこれから、鹿島と莉緒の母親について、もう少し書いていきたいと思う。そしてすでに予告している通り、鹿島と同じ電車に乗り合わせたのことも、記していくことにしよう。史料は少しずつそろいつつあるので。

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