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 落丁ばかりの英和辞典をめくるときのような苛立ちが、総身をゆるく気怠くさせて、彼と身体を交わすことを灯夏は拒否した。彼女は、久しぶりに一夜をともにすることを拒んでいる自分を見出した。愉快になった。長らく息を潜めていた「生」の歓びに打ち震えた。


「なぜ、という問いなんて浮かんでこないけど、どうしたらよかったのかと考えることはよくある」

「わたしには、どうしてここにいることを知っているのだろう、という疑問ばかりがあるけど」


「知性でも推論でも、運命でも宿命でも、もしかしたら奇跡でもない。強いて言えば、脱色した直感。ここにいるだろうと思ったんだ。ぼくたちはあのころ、北へ向かった。だから、北に行けば、なにかがあると信じていた」

「あなたはあのあと、たくさんのひとと寝たのでしょう? なんでいまさら、わたしを抱きたいと思ったの?」


「忘れられないんだよ。あれからたくさんの女性と一夜をともにした……けど、灯夏が恋しい気持ちはいつまでたっても消えなかった。一緒にいることに決めたのに、べつべつに生きることになって……灯夏を失って、その喪失感がひとつのトラウマになってしまった」

「あのときのことは、申し訳ないと思っているわ。子どもだったのよ、ふたりとも。どこまでも続いていかないことが決まっている関係だってことに、目を背けていたから……」


 灯夏が電気を消してふとんにもぐりこむと、鹿島は彼女に背中を向けて、後ろの山から聞こえてくる秋の虫の音に耳をかたむけはじめた。灯夏は、どんどん感傷に灼かれていった。


「もう終わったんだな」

 カーテンを縁取る月明かりを冷然と見つめながら、灯夏は、彼から逃れるように身体を軽くたたんだ。


「これから、あなたはどうするの?」

「死のうと思う」

「短絡的ね」

「短絡的なんじゃない。生命より大事なものを大事にしたいだけだよ」

「でも、死より大事ではないのでしょう」


 暗喩を殺されたことで、鹿島は決意した。この物語から退場しようと。


 灯夏の物語からではない。ふたりの関係が紡がれてきた「場」から、永久に追放されることを、甘んじて受け入れるということだ。我々を地上に縛り付ける引力のごとくに、灯夏の記憶から鹿島の残像は一切消えず、彼女の一生にずっとつきまとうに違いないけれど、実質的には、彼は追放される。


 素晴らしい終わり方ではないか。灯夏の一生のうちから切り離せない存在になれただけで幸福なのだ。鹿島は、自分を幸せな存在だと心から思った。宇宙の片隅で星がひとつ消えても、宇宙は存続する。地球が消えても、ひょっとしたらそこにあり続ける。


 諸行無常というのは嘘だ。無常でないものは、たしかに存在する。それは、法則ではない。法則は一秒後に訂正されるかもしれない。林檎が地上に落ちなくなるかもしれない。しかし、幸福は永遠だ。そんな訳がないとだれもが言うかもしれない。だけど鹿島は、幸福は永遠だと、永遠の一瞬に思い、凍結した。


     *     *     *


 だが筆者は、どんな認識も絶対ではないと思いがちなので、鹿島の意志は尊重しない。だからというわけでもないが、これからしばらくは、鹿島のことを書いてみようと思う。丁度、欠落していた資料が見つかったところだから。

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