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 タンバリンを宇宙に放り投げると、クラゲの浮いた海になるように、夕陽を描いた画家のパレットが鏡の上で弾ければ、夜は地球を去ってしまう。


一 上の詩は英語を日本語訳したものであるが、原文を明記する義務を、だれも負っていない。

二 上の詩をうたった人物は存在しているが、実は存在していないと言うこともできる。

三 上の詩は、詩ではない。

四 もし「三」が正しいならば、これは小説である。

五 厳密にいえば、三は「三」と別である。だとするならば、四は意味をなさない。

六 あなたはこの詩について、ひとつ注釈を加えなければならない。

七  ……………………


 俺はこうした実験的な小説を作らなければならなくなるくらい、焦っている。これは、死への恐怖でもある。


     *     *     *


 灯夏は、波止場はとばから、向こうの沿岸にある灯台を見ながら、自分の名前とそれを重ねて、「夏のうえに灯りがある」と思い、秋の夕暮れに夏の涼やかな風をささやかながら感じた。終わりの見えない日々と、続いていく変わらぬ日常の、どちらがいまの自分を的確に表わした境遇かと考えると、両者の中間くらいにあるような気がする。


 携帯電話が鳴った。


「あ……三芳みよしです。『フィロソフィア』の三芳です。灯夏さんですよね?」

「はい。そうです」

「先ほど、灯夏さんを探している方がお見えになりまして……」

「お名前は」

「ええと……さぎといえばわかると……」

「いまはどこに?」

「また明日来るとだけ」

「分かりました。あとはわたしが引き継ぎますので」


 どうしてここが分かったのだろう。灯夏は暗くなった向こうの山を見ながら、明日なんてこなければいいのにと思った。そう思うと、この目の前の海に飛びこめばいいのではないかという考えが脳裏にひらめく。しかし、死ぬにしても、一度くらいは抱かれてみたいと思った。


 座標平面上で角シータに斜方投射されているのが人生だ、というようなイメージを抱く子どものような無邪気さと、地獄はロマン主義的な散文で満ちている、というような思春期の傲慢な思想こそが、生命を維持する上で必要な食糧だ。そして、真っ暗なスクリーン上に、ありはしないものを見出してしまうのが人というものなのだ。しかしその幻想が瓦解した瞬間、死というものが右手をひらひらと振って迎えにくる。


 線香花火の灯火あかりが落ちるときの、その驚きと悲しみ――それこそが性交の適切な比喩あり、究極完全なるエクスタシーの視覚表現であろう。だからこそ、死ぬ前に抱かれることへの、美学と実践的価値が、そこに現出する。相手は、鷺だ。灯夏は、残酷な悦びに満たされながら、暮れゆく雪国の秋の風に、涙を流さずにはいられなかった。


 キャンバスの布を張るために使っていたハンマーが、灯夏の小指をかすめた。なぜか、左手の小指を立てていた。夕暮れの灯台を思いだした。そして重力抵抗をもろともせずに屹立きつりつする鷺の×××が、遠くにある景色のようなものとして、眼前に浮かびあがってきた。親指の二倍くらいの鷺の×××は、十全に灯夏を満足させられない。人生の最期が、エクスタシーを感じがたい交わりというのは、皮肉なものだ。


 コバルトブルーの絵の具が床に転がっていた。店頭に並べるはずのものだ。踏んでしまいたい。そんな慾望になんとか打ち克ち、清潔なタオルでついてもいない汚れをき、バックヤードから店内へと戻った 白色の絵の具がよく売れている。愛おしい。口づけしたくなる。舌をからませたくなる。


「灯夏」――そのとき聞こえたのは、彼女をとがめる声ではない。彼女を呼ぶ声だ。


 声の持ち主は鷺――


     *     *     *


筆者 「それでいいのか?」

二木 「…………」

筆者 「なにを怖れている?」

二木 「鷺でないと、時間軸も空間軸もめちゃくちゃになってしまう」

筆者 「おそれるな」

二木 「お前のこの小説が台無しになるぞ」

筆者 「ならない」

二木 「なぜ?」

筆者 「いずれ分かる。さて、あの人物の名前を、ここに書くんだ。そしてこれからは、筆者がその筆を引き継ごう。きみはもう、登場人物のうちのひとりに戻りたまえ」


     *     *     *


 声の持ち主は、鹿島だった。灯夏にとって、いつぶりの邂逅かいこうになるのだろうか?

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