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 この日、宮子が着ていた焦茶色の膝上まであるガウンは、彼女の身動きを拘束する機能を担うことを強いられ、発汗するふたりの情熱の受け皿となり、長年に渡り築き上げたブランドの権威は、失墜した。


 オトコの臭いが染みついたガウンを二木の顔に投げつけた宮子は、「帰れないじゃない」と顔を真っ青にして彼をなじった。しかし、成り行きの仕業を、特定の個人の責任に帰するということに、どれほどの妥当性があるのだろう。


 二木は当惑したような表情のまま、エピキュリアンな微笑を――神々の晴れやかな哄笑こうしょう裏面りめんにある、神聖な卑屈さを鈍く潜ませながら――見せた。


 事後のふたつの裸体は、自然の摂理から裸木になった公孫樹こうそんじゅとは違い、哲学的な分析対象として整ったデータセットというエナメルをまとっている。ゆえに、必然的に、数学的であると擬態する。


 しかし事後の裸体に、それほど深い意味を見出そうとしてしまうのは、第三者の視点からそれを妄想する――描こうと試みる――者たちの、一種の衒学的げんがくてきな態度なのかもしれない。


 宮子は戦慄的な動揺を隠すことができずに、このガウンの行き先を、わずかな「冷静」の残滓ざんし費消ひしょうしながら考えていた。一方の二木は、彼女の汗ばんだ背中を愛撫するという名目で、人さし指で何度もインテグラルを描いた。そしてそのまま後ろから攻め立てた。


 ガウンはベッドの下へと落ち、透明人間が脱ぎ捨てた後のような哀愁を噴散させながら、宮子の嬌声きょうせいに聞き入っているようだった。


「あなたは、爪を切ってくれるひとに事欠かないみたいだけれど、わたしのために、爪を伸ばしてみない?」


「愛撫のときに痛いよ? それとも、苦しみたいってこと?」

「違うわ。性的な関係を解消して、もっと深い関係にならないかってこと」


「それは、俺に爪を剥げっていってるようなもんだよ。苦しむのは、こっちだけだ」

「お金に不自由しないし、着るものにも食べるものにも困らないし……すべての慾求を満たすことができるわよ」


「獣のような性慾は、どう満たせばいいんだ?」

「それは……その気になれば、わたしが相手をするから」


 二木は性慾を二次的な存在と見なす愛をすべて偽善だと思っていたし、家族愛とかいう数えきれる円周率の副次的な利用めいたものは、拒絶すべきものだと決めていた。


「俺は、きみとだけじゃ満足できない。きみだって、いずれそうなるよ。現にいまも、夫と俺のところを、渡り鳥みたいに往復しているじゃないか」


 二木が彼女を背後から抱くと、その腕は払われて、バスルームへと宮子は黙って消えた。それを見届けた二木は、次に羽ばたく島を選ぶために、いままで抱いてきた女性たちのうち、もっとも海王星の衛星に近い名前の子を探した。


 そのとき、宮子はバタバタと足音を立てて戻ってきて、そのまま二木を押し倒した。


 ふたりは、英雄的鳥獣がそうであるように、縄張りの内側にも敵をいくつも作っていた。しかしそれは、運命に隷属するための知恵を授け合う互恵的ごけいてきな関係を結ぶのには、弊害でしかなかった。


 二木はこのあとも、肉慾的関係の名簿のなかから、宮子を外に出さなかった。


 彼はいま、『公孫樹子爵夫人』という小説を書いていた。原稿用紙三十枚の短い小説である。しかしそれは、ある新人賞のひとつの部門に投稿する応募作でもあった。


     *     *     *


 公孫樹子爵夫人は餓鬼道から彼を釣り上げると、辛辣な批評というペーパーナイフで肉を削ぎ落とし、硬貨を投げ渡される程度には喰らえる料理に仕立て上げた。つまり彼女は、優秀な編輯者エディターであった。しかし彼女は六道りくどう内奥ないおうを心得ないまま彼に近づいたために、純粋恋愛プラトニック・ラヴを一生涯放棄しなければならなかった。公孫樹子爵夫人は「自分」という一冊の本のなかに、無数の返り点を適当に打つようになった。取り消し線で全文を削除するまで、彼女は不純恋愛ロマンティスムに身をなげうたなければならない。…………(以下省略)

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