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 ラスクを割りますと、ラスク的なものになると、あなたは言うけれど、

 わたしを、わたし的なものにするには、ドッペルゲンゲルを希釈するしかありません

 ドッペルゲンゲルは、わたしの似写しですが、

 似写しは、わたしを似写しというでしょうし、

 けど、わたしたちには、わたし的なものが必要なのです


     *     *     *


 二木がこの詩に出会ったとき、この詩を書いた詩人は死人のうちに数えられていた。


     *     *     *


 飄風ひょうふうが吹いて、側溝そっこうの枯れ葉は、並木道へと押し出されていき、コンクリートの上で眠っているところをブーツで踏まれ、ニヒリスティックな警句を吐いた。


 インフェルノは音楽の都、阿鼻叫喚を心得ている者のための。

 枯れ葉に用意されているのは、炎熱地獄と孤独地獄だけである。

 於遍地上世界あまねくちじょうせかいにおいて雖無地獄無比類ひるいなきじごくなしといえども或者曰あるものいわく成仏即転生也じょうぶつすなわちてんせいなり……云々


 ブーツを履いた女性は、二木に怨みを持っていたがゆえに、愛さざるをえなかった。いや、愛するがゆえに、怨恨を募らせていたのかもしれない。が、その怨恨は、性的な慾求と家族的類似である。


「お待たせ。どれくらい待った?」

「きみが来なかったらいいのにと思いながら、待ってた。だから、待ってないに等しい」

「なにそれ」


 逆説を用いて会話をする不倫相手は愚昧だ、くらい言ってくれてもいいのに。そう言ってくれれば、大手を振ってロマンティシズムを打ち破れるのに。


 一夜を過ごすだけの相手でないのならば、必要なのは、惰性へと向かい破滅へと帰結するかもしれない、その宿命を受け入れることのできるようなイズムだ。


「信じられないと思わない? こんなに魅力的な妻を放っておいて、ビリヤードに耽っているのよ。だから、許されてもいい……許されるべきでしょう。夫とは違う別のオトコと遊ぶのと、私よりビリヤードを優先するのとの間に、どれくらいの差があるっていうの?」

「高低の差はないかもしれない。でも、幅は大きいと思う」

「道徳とか倫理とか、そういうものを捨ててしまって、思いっきり遊びたい。それだけ」

 と、宮子は、わらうように笑った。


 二木は、適当に遊んでからホテルに行こうという計画を――というより習慣を、今日も繰り返すつもりだったが、気が変わってしまった。


「今日はさ、昼と夜を逆転させてみようか」

「昼にってこと?」

「そう。そして本当に、きみの友達の家で夜遅くまで遊んでみるんだ。これなら、部分的な嘘しかついていない分、良心的だと思う」

「イヤ。夜じゃないと昂ぶらない」

「夜じゃなくても、昂ぶらせることはできるけれど」

「想像できないわ。あとに友達と遊ぶなんて」


 宮子は二木を置いてぐんぐんと進んでいく。個室を予約してあるからと言って、いつものへ行こうとする。そんな宮子の手を、二木は握りしめて抱き寄せた。


「分かってるんだよ、俺は。お店でするよりホテルに行った方が、道徳的で倫理的じゃない?」

「なんでそんなに、道徳と倫理にこだわるの?」

「俺、小学生のときの通信簿で、一番悪かったのが道徳なんだよ」

「もうその頃から不良だったの?」

「マジメな子だった。でも、哲学の本なんて読んじゃってたから、そのせいだと思う。道徳って、クオテーションをしなくてもいいから尊いんだよ、きっと」

「クオテーション?」

「引用のこと。道徳って、押しつけがましいし、根拠がうすいし、嘘っぽく思えるからこそ、尊いんだよ」


 二木は裸になりかけた公園の公孫樹こうそんじゅを指さして、あそこでキスでもしようかと誘った。断らないと思ったから、誘った。宮子は、グレープ色のようなキスを貪婪どんらんに求めた。それに応えるということは、二木にとって義務的で慣習的であるのに、やはり逆らえないくらいに、美しく思えるものでもあった。


 秋から冬に移り変わる前の季節にありがちな、雪曇りのように煙った日だった。


     *     *     *


 ドッペルゲンゲルの作る詩は美しい

 わたしのために著作権を放棄してくれるから

 愛しのもうひとりのわたし

 わたしはかわりにインフェルノに堕ちてあげる

 あなたはパラダイスで天使の喇叭に顔を顰めて

 わたしの伝記を書いて頂戴

 著作権はデイモンを通して渡してくれれば

 安心してダンスパーティに沈湎できるわ

 わたしは幸福な結婚を地獄で実現し

 地獄をより地獄的にすることに愉悦を覚えて気付いたの

 エターナルを累進的に跋渉することが

 万福のハピネスだということを

 バベルの塔は完成しなかったから尊いのよ

 完成してしまったら眠るしかなくなってしまうから

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