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 八万宝蔵はちまんほうぞう十二部経じゅうにぶきょうを通読し、和洋浩瀚わようこうかんの書をひもとき、パーソナライズド・ディクショナリーを編纂へんさんしたところで、一篇の小説を作り上げることはできない。一篇の小説を成すために必要なのは、それを成すために何かを成すことである。

 二木が童貞を捨てたのは、そのためであった。


 暮れの森 恋文隠す 砂日傘


 童貞を失する前の彼の最期の句は、超越的存在へと返却された。

 そして超越的存在は括弧かっこにくくられ、二木は「新しい形の官能小説」の構想に取りかかることができた。


 二木は上から覆いかぶさるようにして莉緒の唇を貪った。莉緒は貪られる悦楽よりむしろ、貪らせているということへの承認欲求の方に愉悦を感じていた。


     *     *     *


 しかして夜ノ於月ノ麓よるのつきのふもとにおいて難陀婆羅ノ涙なんだばらのなみだ菩提樹ノ如樹液ぼだいじゅのじゅえきのごとく…………


 つけたり 後年、二木の遺書にこのようなことが書かれていることが発見される。と同時に、彼の一生は或る小説家により叙述されることになる。


 続附 筆者は、二木と莉緒の話から、莉緒と鹿島の話へと繋ぐ方法論を、後に提示するつもりでいる。


     *     *     *


 二木は、二度と莉緒を後ろから抱くべきではないと思ったし、彼女を背中越しから慰める役割を担うことができるのは、彼女の将来に対してそれなりの責任を持つべき人物であろうと考えた。そしてもし自分が莉緒のように、後ろから慰められたとしたら、一種の悟りめいたものを開くのではないかと、やはり思った。


 二木はむかし、灯夏を初めて抱いたときに、彼女にという感覚がしたのをおぼえていた。彼女はこれから何人の男を抱くことになるのだろう。どれくらいの男が彼女をという実感を得られるのだろう。

 そんなことを考えているうちに、二木はあっけなく果ててしまった。


 これは昔のはなしである。二木の父親は彼のための投資として本を購入するお金を惜しまなかった。そればかりか、一カ月のうちに五万円を費消できず、かつ翌月までに五万円分の本を通読しなかったとき、この父親は非論理的な筋道から導出した不合理な言葉で我が子を叱った。


 しかし二木は衒学的げんがくてきな子供ではなかったし、しっかりとエッチな漫画に夢中になった。ただし、年齢上買えないものは買わなかったし、父親の指し示すというものが活字を意味することを了解していたので、自分のお小遣いから漫画代をだしていた。


 彼は功利主義もプラグマティズムも分析哲学も、それがなんであるかのを高校生のときには知っていたが、哲学者の名前を同級生の前で言うことはしなかった。家に友達を呼ぶことも避けた。活字が苦手なふりをしていた。


 将来への投資という名のエナメルを剥がせば、そこにあるのは装飾品としての社長の子息像で、二木はそれに反抗しなければならなかった。そして同級生たちと交流していくうちに、自分のことをみじめに感じだした。


 しかし二木は、隣の芝生に憧れると同時に、そこへと飛び込んでしまわない、いわばもどかしい状態に身を置くことこそが、生きることの唯一の動機になるという哲学を見出してしまっていた。

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