29

 二木ふたきは女性の背中から覆いかぶさり右手を彼女の右手に重ねて指をからませ、二人の皮膚の接触部分は、自分の平熱の何倍くらいあるのだろうかということを、胸から太ももまでに意識を集中させて考えた。


 ふたりはこの日、十二個の体位を試し、そのうち三個に底知れぬ愉悦を覚え、六個に激しい嫌悪感を抱いた。残り三個については、継続審議という形となった。


「二木くんは、もう仕事をしないって決めたの?」


 その女性は――「合歓ねむ」というハンドルネームの二十三歳の大学院生は――房事の後の余韻に浸りながら携帯電話を再起動させた。この二時間半のあいだに、なんのメッセージも届いていなかった。


 合歓ねむは、明け方のホテル街の空気を吸おうと思い、窓を開けようとした。

「ここは開けちゃダメなんだよ」

 彼はベッドの端に座る自分の懐へと彼女を導くと、そっと眼鏡を取った。眼鏡をとられているとき、合歓ねむはこめかみにこそばゆいものを感じた。


「きみは、英語を読むことはできる?」

「英語? 読めなくはないけれど」

故郷くにはどこ?」

「雪国の田舎」


 それを聞いた二木は、彼女のヴィの部位を弄びはじめた。


征矢そやをそっとえびらから抜き出し、「このオンナを俺から盗ろうという、堕落からの解放という啓蒙の物語の信奉者よ、大慈大悲なく八大十六小地獄へ陥らせてやろう」と怫然ふつぜんとした態度で弓を引く)


 そんな逆説的ヒロイズムチックなスタンスを持つ二木の繰り出す愛撫は、優しくあれども激しくもあり、その技巧から逃れようとの意気地をくじく。愁訴しゅうその声を、堪えきれぬ悦楽に変える運指。

 文王、周公、孔子……の聖と徳を顧みず、紂王、妲己の如く酒池肉林に惑溺するような朋輩ほうばいとは違う、彼の愛撫。


「むかしさ、英語の勉強をしてたころがあったんだよ」

「んっ……なんのために?」

「官能小説を書こうと思ったんだ」

「英語で?」

「そう。んで、その官能小説を深宇宙の外延に吹き飛ばしたかった」

「…………」

「俺はド級の繊細な性格の持ち主だからな」


 彼は、こんな告白をした自分を笑殺してしまいたいと思った。しかし彼女を冷笑しようとは思わなかった。悪罵しようとも断じて思わなかった。ただ、抱き過ぎたと後悔した。


 清らかな陽がホテル街を斜めに走り、雨上がりの道は照り輝き、物体の影はいっそう濃くなっている。

「淫らな梅雨……」

 倦怠感に優しく包まれた二木の口から、そんな呟きが思わず漏れた。


     *     *     *


 合歓ねむと別れた後、別の女性と連絡を取った。待ち合わせの時間まで半日もあった。二木は本屋に入り、彼女からくすねた金で『エッゲンシュタイナー対話集』と『軍手の博覧会』を再び買った。


 官能小説を書こうとしていたという二木の言葉は、本当だった。英語で書こうとしていたというのも事実だった。二木の願いは、自分の企てている「新しい形の官能小説」を読んでもらうことだった。さぎは、小説家を目指していた二木にとって、ヒーローのような存在だった。なかでも『軍手の博覧会』は、本がボロボロになるまで読み返していた。


 鷺は一年前、彼が師と仰ぐエッゲンシュタイナーと対談を行った。そこで交わされた話題のひとつが、『軍手の博覧会』の続篇ともいうべき『酩酊機関』が批評家に過小評価されているというものだった。そこに書かれている内容には同意だった。と同時に、二木は物足りなさを感じざるをえなかった。


《あいかわらず、運命的な出会いは、肉体的な共同体の再編を要求するものです。床の間の舞妓の人形を見てみるといいでしょう。彼女はいったい、なにを信仰しているのか。運命的なものと、奇跡と、どちらを信じているのか。自分たちの哲学は、舞妓の人形の内奥ないおうの読解にかない》


「ここまで言い切ってくれる作家は、Sagiしかいない」

 あのころの二木は、涙が止まらなかった。


《少なくとも、わたしたちにとっての最大の関心事は、代弁を拒否しつつ代弁をすることなのだろうね》――と、エッゲンシュタイナーは言った。


 それは違う。あのころの二木はかぶりを振った。

「Sagiは、代弁を拒否しているのではなく、になることを拒否しているのだ」

 エッゲンシュタイナーは、鷺のしていることを、しようともがいていることを、十全に理解していないと、二木は痛切に感じていた。

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