28

 さぎが最初にハーフナー・ヴァン・デ・ホン・エッゲンシュタイナーと対面したのは、彼が文壇に躍り出てから三年の月日を経たころだった。


 赤茶色の腰まである髪の毛の裏側は、哲学的な思惟と詩的な感性が星のように煌めく宇宙になっているのではないかと思われた。自分より年下のように見えてならなかった。が、理知的な瞳と冷徹な眉を見ると、恐れおののくしかなかった。


「ふたりきりになりましょうか」


 パーティを抜け出すためのその彼女の文句には、性的な感じがひとつもなかった。鷺に対して、人間的な好奇心を抱いている様子もなかった。ふたりはラウンジで、ほんの数分だけ立ち話をした。鷺はハーフナーに対して自分から言葉を発することができず、すべてが受け身だった。


「あなたは、どれだけ非難されても折れなくていいのに。この前発表した短篇を見て、ほんとうにがっかりした。雑誌を思いっきり投げ捨てた。批評なんて気にしなくていい。あなたのやっていることが正しいかどうかなんて、わたしたちが決めるものじゃない。死んだあと、生意気なひとたちが決めてくれる。だから、死後の読者のために書きなさい」


 これだけの言葉を、まくしたてるわけでもなく、感情の起伏を激しくするわけでもなく、かといって聖人の訓戒の類のようにでもなく、迷いなく言い切ったハーフナーに対して、「がんばります」としか言えなかった自分を、鷺は恥じるしかなかった。


 ハーフナーはため息をひとつついて、「がんばらなくていい。あなたに必要なのは、肩の力を抜いて手首で物語を紡ぐことなのよ」と言い、鷺の頬に軽く口づけをして去っていった。それからしばらく、鷺はハーフナーと話す機会を全くなくしてしまった。


     *     *     *


《循環小数を既約分数にする作業を素早くできるかどうかが、キャンバスを綺麗に張る技術に直結する、つまり美術の一部は数学の一部と接続する》


 そのようなことを言ったのは、やはりノエルだった。しかしこの発言の真意は、誤解されたまま世間に膾炙かいしゃされてしまっている。


 ノエルがいう「接続」とは、絶え間なくという意味ではなく、接続されたりされなかったりを往復するということだ。このノエルの発言の起源は、やはり彼女たちを育んだフランス現代思想の思考法――かと思いきや、ノエルが幼いころから親しんでいたピアノの鍵盤にある。


 もしかりに、ピアノが、鍵盤をたたくことで音がでる楽器だと定義されるならば、鍵盤をたたかれない状態のピアノは、ピアノかどうかを判断することができない。しかしがピアノをたたくことによって、それを証明することができる。これは、ノエルが実感していたことだった。自叙伝にも書いてある。


 つまり、彼女が想定する「接続」とは、定義の確かさを証明するためのなのだ。「美術の一部は数学の一部と接続する」と彼女がいうとき、それはお互いの存在を確かめるための手続きをする、というくらいの意味のでしかない。彼女のこの言葉は、あまり大きな意味を持っていない。どこかの誰かが、深淵な意味を見出しすぎてしまっただけだ。


 しかし、無邪気にも「直結」という言葉を取り込んだせいで、誤解の余地を残すことになった。それは彼女の手抜かりだったということを、認めなければならない。


     *     *     *


 ――との解釈を示したのは、意外にも莉緒であり、しかも公に発表された文章ではない。


 彼女は、ベッドのなかで肉体的に接続しているときに、この論理的な(と彼女が思っている)解釈を、追想してしまう。鼻の先のオトコと自分が、愛し合っているかどうか、それともワンナイト・ラヴを求めているかどうかを、性的な接続によって確認する。エクスタシーは、そのための手続きの一種である。


 あの頃から悠は、莉緒を愛していた。しかし莉緒は、彼の愛情を一身に受け取っていたわけではない。それが別のオトコときっかけとなった。そしていま莉緒は、或るエピキュリアンと一緒にいる。灯夏を激しく抱いたことのある、あのオトコと夜を共にしている。


 性慾のためだけに生きている、と誤解されている、あのオトコと。


     *     *     *


 なお、無事に手早くキャンバスを張りおえた灯夏は、ケプラーの法則を愛してやまないと、筆者はこっそりと想定していたこともあった。


 そして、過去の想定の幾つかを拾っているうちに、共時的に書かれる物語を拒絶したいと欲する登場人物がいることを思い出した。

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