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 指揮者の父とチェロ奏者の母を持つノエルは、当時のことをこう振り返っている。


《レコード盤の上に針が落ちる映像を見ると、自分の生誕の比喩のように思えてならなかった。わたしの役割は、自分の存在を自覚する以前に決定されていたのだ。まずわたしは、それにプロテストすることを考えた。しかし父と母のことを、わたしは愛していた。その愛を受け止めるたびに葛藤した。両親を愛すると同時に、両親から自由になる哲学は存在しないのかと》


 これは、ノエルが晩年に書いた自叙伝からの抜粋である。

 大学生の灯夏は、ノエルの自叙伝からあふれでる、ヴィへのこだわりに衝撃を受けた。


 そして、むかし付き合っていた彼のことを思うと、彼がダメになってしまったのは、わたしを愛することと、愛することで失われる可能性とを、うまく調停できなかったからなのだと考えた。


 一方灯夏とうかは、彼のような葛藤を抱えないで済んだ。彼女には、それが不思議でならなかった。しかしそれは、二人ひと組でベッドを持って坂道をのぼるときに、上と下のどちらを持つかで受け止める痛苦つうくが異なるように、ある共同の関係が、その関係性の中から発生する産物をすべて、平等に分配するわけではないという理由でしかない。


 ノエルは偶然、音楽の才能がなく、偶然、美術の才能があった。そしてその才能を理解してくれる親がいた。彼女は偶然、哲学なしで葛藤を解消することができた。だからこそ、必然的なものはないというニヒリズムに陥った。自分の意志で成し得るものはひとつもない。すべては、自分に語りかけてくる環境にって決まる。それがノエルの自生的な哲学となった。


 あの日、あの公園、あの血、あの涙、あのざわめき……あのときのすべてが、ふたりを荒波へと放擲ほうてきした。負い目と、負い目から発せられる気遣いと、気遣いをさせていることに対する負い目と……ふたりは、いつまで経っても不安定な形で愛し合った。傷付き合いながら、卒業式の日を待ち望みながら。


     *     *     *


「灯夏さん、80号の布を張ってもらっていいですか」

 灯夏は絵の具の補充の手をとめて、その役目を彼女と交代した。

「今日の夕方に取りに来るとのことなので、それまでにお願いします」

「分かりました」

 灯夏はバックヤードに入り、80号の骨組みに傷がないかを確認し、真っ白のキャンバスを張る作業をはじめた。


     *     *     *


 鹿島が莉緒の母とをするということは、即ち、鹿島と莉緒が近接な仲になるということでもあった。

 不幸なことに、二人は、新生と復活をげるための道を共に進もうと、愛撫しあうことになるのだった。

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