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 意味もなく、泣くことができるひとに憧れた。なぜなら、そんなひとはいないと思うから。


 すべてのものに意味があるかどうかとかれれば、そうではないと自信を持っていえる。無意味という意味があるのだという抗弁は、したくなかった。でも、泣くことには、意味しかないと思う。


 もし、意味もなく泣くことができるのだとしたら、なんて素晴らしいことだろうと、考えてしまう。


 現実には存在しないものを、存在させることができるのが文学の力だと思っていた。だから、登場人物のひとりを、意味もなく泣かせてやろうと思った。


 でも、なぜこの人は泣いているのかを、どうしても説明してしまうし、読者はその説明を求めていた。文学には限界があるのだと絶望した。


 そんな文学少年に、一筋の希望を与えた作家がいた。


 彼女が彼に教えてくれたのは、文学が無限の可能性を秘めているということが分かってしまったら、だれもなにも書かなくなるかもしれない、ということだった。


 無限なのかもしれないし、ひょっとしたら有限なのかもしれないという状態が保たれているからこそ、言いかえるなら、可能性というものは存在するけれど、可能にはならないからこそ、ひとは極限まで真相に近づきたいと欲するのだと。


 夢も目標も、叶ってしまったら、なにをする気にもなれないだろう。解決できないことがあるということは、人類が存在する上で、必要十分条件なのだ。


 彼女の思想の背景には、ニーチェの流れをむフランスの現代思想があるのだろうけれど、、彼の住む国では、肯定的に受け入れられなかったのだと思う。


 でも、彼のこころには、彼女の書いたものをすべて読まなければならないという使命感が、猛火の如くあらぶっていた。


 その文学少年は、活動の中心を海外に移すことにした。自分の小説は、きっとこの国では理解されないと思ったのだ。事実、彼の小説は、後年、この国の批評家に酷評されることになった。


 文学少年がプロの作家へと転身するのには、ほとんど運に頼るところがある。前提として「読まれる」必要があり、次に「高評価」される段階に入り、そのうえ「知名度」を得ていくことで、ようやく、仕事が舞い込んでくる。


 しかし、このときの彼には、彼女に自分の小説を読んでほしいという気持ちだけがあったといっていい。


 文学少年――さぎにとって、彼女は越えがたい壁であった。いや、ある時期までの彼は、越えるべきではないし、越えない方がよいとさえ思っていた。


 超越的存在の無謬性むびゅうせいを証明しようとした哲学から、次第に、人間中心の哲学へと移っていく、というような哲学史。そこには、ひとかたまりの感触がある。


 だけど、彼女の文学は――哲学は、あるひとつのテーマを掘り下げるわけでもなければ、なんの傾向を見出すこともできない。一作一作、ほとんど違う色と形を見せ、数学的な厳密性を失することもあれば、神話を解体し世俗へと還元しようと試みることもあれば、その逆もあった。


 彼女の論敵であり親友でもあるカレン・オーは、次のように述べている。


「親愛なるハーフナー。文学において、ふだんのあなたの、身体を貫く、重力に負けないくらいの『軸』は、どこにあるのかしら?」


 鷺にしてみれば、彼女の批判は批判として成立していない。

「軸」がないということが、なぜ、欠点となりうるのか。文字の上を、幽霊のように浮遊し、物語の海を、地図もなく航海することを、恥じるべきだというのは、それこそ恥じるべき考え方ではないのか。


     *     *     *


 鷺のプロとしての処女作は、おそろしいことに、まったく無視された。批評家の錆びた果物ナイフによって解剖されることさえなかった。


     *     *     *


 当時の灯夏は、ハーフナーとカレンの共通の友人である、ノエルの芸術に魅せられていた。彼女をノエルの芸術へと接続したのは、もちろん、連れ去られていく灯夏の手を――その後、一時期だけ絵筆を持つことになるその手を、握りしめ引っ張り、元の場所へと走るようにと背中を押し、逃がし、その場で、殴られて蹴られて血だらけになった、灯夏の恋しい彼であった。


 その日――夕陽は、夕焼けより美しく、春は、冬よりも夏に近づいていた。秋らしさをかたりながらも。

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