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灯夏の父親は、自尊心の塊のようなもので、
自分は、教養主義を高次的な段階へと昇華させ、二次的な存在として悟性を捉えるなどと、よく分からないことを弁じ立てる。そんなことだから、虚しい高校時代を過ごしていたらしい。
母親の方といえば、そうした夫を敬愛していたので、灯夏の、彼への軽蔑した目線に対して、冷評を加えていた。ふたりはきっと、なんかの哲学書の読書会でもしながら、ベッドの上で交わっていたのだろう。そう、灯夏は想像することもあった。
そんなものだから、灯夏は、自分の家にいることが苦痛でたまらなかった。もし、彼氏がいなかったなら――死んでしまった元カレが目の前に現れなかったとすれば、自分はいま、なにをしていたのだろう。彼女はときおり、もしあのとき、というものを想像して身震いしてしまう。
愛されていないという自覚はあったのかもしれない。しかし、憎しみほどに高潔な愛はない。のみならず、高潔な愛は、
なぜ、起きると朝ごはんが用意されているのか。包丁が食材を調理するために使われるにとどまり、まな板にこびりついた菌を滅するために洗い流すのか。
灯夏はあの包丁が自分に向けられるとき、その合図となるのは、「よしよし良い子だね」という呪文であると思っていた。
× × ×
高校生のとき、灯夏に、はじめての彼氏ができた。
春、まだ入学して間もないころ、靴のなかにラブレターが入れられていた。茶封筒に入っていたのは、原稿用紙だった。青春とは、こういうことなのだろう。馬鹿らしい。でも、こういうことができるのは、後にも先にもいましかない。そんなことを思うくらいには、灯夏は大人ぶっていた。
でも、ほんとうに冷評したいのであれば、
ぼくは、あなたが好きになったので、付き合ってください。
付き合ってくれなくてもいいのですが、そうであっても、ぼくはあなたを思いつづけます。
灯夏は形式的な無礼より、本質的な偽善に辟易した。
家に帰り、原稿用紙を四つ折りにして茶封筒に入れ、そのまま真ん中に鋏を入れた。
春、まだ入学して一ヶ月も経たないのに、二人目からの告白を受けた。
今度は、日の暮れるころだった。
「わたしでよければ、いいけど……ほんとうに、わたしでいいの?」
「うん、それしか考えられない」
「わたしと、手を繋いだりできるの?」
「それは、ぼくのセリフのような気がするけど」
「放課後、この公園に落ち合う、みたいな感じになるのかしら」
「そうだね……そうしよう、それがいいと思う。トウカちゃんは、それでいい?」
「いきなり名前で呼ぶのね、べつにいいけど。トウカって、どういう漢字か分かる?」
「トウは、ロウソクを連想させる、アレ。カは、夏……ぴったり。夏じゃない字だったら、告白しなかったかもしれない」
「トウは灯台の灯だけど、それでいいの?」
「もし冬だったら、――冬と夏か。同義語だ」
「対義語でしょう?」
「でも実質的には、……さっそく、ケンカしちゃう?」
灯夏は、この会話のどこで笑おうかと迷っていたが、ここしかないと思った。彼もそうだった。安心したのだろう。ようやく、笑った。一緒に笑った。
もう、あのときのような恋と愛は、意味的に、二度と取り返せないのだろう。彼との記憶がなかったことになればいいのに、とは思わない。彼以外の男との記憶を、すべて亡くしたい、とは思う。
× × ×
筆者は、彼女のためにも、ここで物語を終えてあげたい気持ちでいる。が、終えるわけにはいかない。なぜなら、灯夏は、――この物語のなかで唯一、灯夏だけが、筆者によって、雪解けのあとの春を迎える可能性があるからだ。
× × ×
一) 先日発表された、『オゾン層、および、芸術の空中性』と題された批評のなかで、
二) 鹿島は、――むろん、精神的な去勢を味わうことになっていた。
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