24

 灯夏の父親は、自尊心の塊のようなもので、衒学的げんがくてきで、見栄っ張りで、だからこそ傷つきやすかった。循環小数を既約分数にする計算ができないから、循環というコトバをタレスだのヘーゲル的歴史観だの、そんな哲学的なものへと還元して、取り繕ってきた。


 自分は、教養主義を高次的な段階へと昇華させ、二次的な存在として悟性を捉えるなどと、よく分からないことを弁じ立てる。そんなことだから、虚しい高校時代を過ごしていたらしい。


 母親の方といえば、そうした夫を敬愛していたので、灯夏の、彼への軽蔑した目線に対して、冷評を加えていた。ふたりはきっと、なんかの哲学書の読書会でもしながら、ベッドの上で交わっていたのだろう。そう、灯夏は想像することもあった。


 そんなものだから、灯夏は、自分の家にいることが苦痛でたまらなかった。もし、彼氏がいなかったなら――死んでしまった元カレが目の前に現れなかったとすれば、自分はいま、なにをしていたのだろう。彼女はときおり、、というものを想像して身震いしてしまう。


 愛されていないという自覚はあったのかもしれない。しかし、憎しみほどに高潔な愛はない。のみならず、高潔な愛は、欺瞞ぎまんだ。もっとこじれた、依存症と敵意を併発するような愛こそが、あらゆる関係性を円滑にすすめる。


 なぜ、起きると朝ごはんが用意されているのか。包丁が食材を調理するために使われるにとどまり、まな板にこびりついた菌を滅するために洗い流すのか。


 灯夏はあの包丁が自分に向けられるとき、その合図となるのは、「よしよし良い子だね」という呪文であると思っていた。


     ×     ×     ×


 高校生のとき、灯夏に、はじめての彼氏ができた。


 春、まだ入学して間もないころ、靴のなかにラブレターが入れられていた。茶封筒に入っていたのは、原稿用紙だった。青春とは、こういうことなのだろう。馬鹿らしい。でも、こういうことができるのは、後にも先にもいましかない。そんなことを思うくらいには、灯夏は大人ぶっていた。


 でも、ほんとうに冷評したいのであれば、鳥瞰ちょうかんしたいのならば、茶封筒を捨てればいいのだ。ご丁寧にシールを貼った封筒を開けて、三つに折り畳まれた原稿用紙に目を通したとき、灯夏は青春のただなかへと投擲とうてきされた。


 ぼくは、あなたが好きになったので、付き合ってください。

 付き合ってくれなくてもいいのですが、そうであっても、ぼくはあなたを思いつづけます。


 灯夏は形式的な無礼より、本質的な偽善に辟易した。

 家に帰り、原稿用紙を四つ折りにして茶封筒に入れ、そのまま真ん中に鋏を入れた。


 春、まだ入学して一ヶ月も経たないのに、二人目からの告白を受けた。

 今度は、日の暮れるころだった。


「わたしでよければ、いいけど……ほんとうに、わたしでいいの?」

「うん、それしか考えられない」

「わたしと、手を繋いだりできるの?」

「それは、ぼくのセリフのような気がするけど」

「放課後、この公園に落ち合う、みたいな感じになるのかしら」

「そうだね……そうしよう、それがいいと思う。トウカちゃんは、それでいい?」

「いきなり名前で呼ぶのね、べつにいいけど。トウカって、どういう漢字か分かる?」

「トウは、ロウソクを連想させる、アレ。カは、夏……ぴったり。夏じゃない字だったら、告白しなかったかもしれない」

「トウは灯台の灯だけど、それでいいの?」

「もし冬だったら、――冬と夏か。同義語だ」

「対義語でしょう?」

「でも実質的には、……さっそく、ケンカしちゃう?」


 灯夏は、この会話のどこで笑おうかと迷っていたが、ここしかないと思った。彼もそうだった。安心したのだろう。ようやく、笑った。一緒に笑った。


 もう、あのときのような恋と愛は、意味的に、二度と取り返せないのだろう。彼との記憶がなかったことになればいいのに、とは思わない。彼以外の男との記憶を、すべて亡くしたい、とは思う。


     ×     ×     ×


 筆者は、彼女のためにも、ここで物語を終えてあげたい気持ちでいる。が、終えるわけにはいかない。なぜなら、灯夏は、――この物語のなかで唯一、灯夏だけが、筆者によって、雪解けのあとの春を迎える可能性があるからだ。


     ×     ×     ×


 一) 先日発表された、『オゾン層、および、芸術の空中性』と題された批評のなかで、さぎの小説は酷評されていた。それに対して反応したのは、以外にも、三ツ矢棗だった。


 二) 鹿島は、――むろん、精神的な去勢を味わうことになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る