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 まずもって断っておきたいのは――先にも述べたように――先月本誌に掲載された作品は傑作揃いであるので、読むに値しないような佳作ともいいがたいへの批評に、折角の紙幅を裂くわけにはいかぬということである。


 就中なかんずく、出来が悪いのは、Sagi Icinoseのものであろう。この作家が、海外である一定の地位を占めているということが不思議でならない。いや、一定の地位というのは、不名誉な部類のものなのかもしれぬ。シュルレアリスムの焼き直しというか、思ったことを書き連ねただけで一貫した物語がないというか、小説を書き立ての人間が陥る自惚うぬぼれの代名詞のようなものである。


 よくもこんなものを載せる決意をしたくらいだ。この作が掲載された以上は、この作家の小説家としての人生に、癒えぬ傷を残したといえよう。もし、ひとつだけでも評価できるところがあるとすれば、こんな不出来なものを提出した勇気だけである。以上。


     *     *     *


 さぎは、この小説を――原稿用紙120枚の物語を――たった数人の批評家に酷評されたところで、なんの不愉快も覚えなかった。むしろ、「海外」とひとまとめにされた、この批評家にとっての抽象的な「場」において、己の筆で闘い続けていることは、鷺にとってこれ以上のない自信となっている。


 粘土をこねくり回している姉の子をときおり気にしながら、紫檀したんの机の上に執筆用具を広げて、彼は新しい小説に取りかかっていた。


「もう、恋なんてしたくなくなったの?」

 仏間とは反対の襖が開いて、姉の佳純が顔を見せた。

「おれは、ほんとうの愛というものを知ったんだよ」

「なにそれ。使い古された言葉ね」

「使い古された言葉くらい、真実なものはないよ。おれたちが競い合って発明している比喩だのフレーズだのは、永遠に特許出願中になるのが関の山だから」


 佳純は息子を抱き上げて、ひざの上に乗せると、「帰ってきましたよお」とおどけた調子で言ってみせた。


「で、医者はなんて言ってたの?」

「睡眠剤はもらえたけど……なにが原因なのかは、はっきりと分からないって」

「そう……錬次さんはまだ帰れないの?」

「あと一週間くらいはかかりそうだって」


 ふと、秋曇りの日ほど美しいものはないと、鷺は思った。やましい気持ちでいてもいいと言われているような気がするから。紅葉が卑屈に縮こまっているのが、なにものにも代えがたいほど、美しい。


     *     *     *


 莉緒りおは英語の問題集の穴埋めの設問を見て、これは、まず完成した文章があらかじめ書かれていて、次に一部分を削除して括弧に変えたのか、それとも最初から括弧が書いてある文章――ようは頭のなかで考えられた問題を、文字として投影したのか、どちらなのだろうと思った。


 そして、その思考を押し進めていくうちに、この設問を考えたのは人間ではない、という可能性を捨てきることができないことに気づいた。


 自分がほんとうに解かなければならないのは、この設問を考えたのはだれか、ということであって、イディオムだの時制だの特殊構文だのを、記憶を頼りに写すことではない。


 莉緒は、その気づきによって「性交」というものを知った。彼女にとって問題集は、初めてのオトコだった。中学一年生の莉緒は、このことをだれにも言いふらさなかった。みながこの意味を理解してしまえば、学校が、ラブ・ホテルになってしまうと思ったのだ。


     *     *     *


《もう筆を折っていいんだよと、あなたは言った。わたしは、折った筆をくわえながら、窓の向こうにある、花屋さんを見ています。毎日、夕方になると、少年が店のなかをうかがいます。二日に一度、花を買っていきます。花を持っていく少年を見送る少女がいます。その少女は、昨日の朝、ボーイフレンドと一緒に、どこかへ遊びにいっていました。わたしは、あの三人の作者になりたいと思いました。ですが、どうすればいいのでしょう。みんなが幸せになれる結末を、書くことなんてできるのでしょうか。くわえている折った筆を、灰皿におしつけました。そして思いました。わたしは、書かなければならないのだと。もしも、の世界を。せいいっぱい》


     *     *     *


 現在、もっとも優れた作家というものを答えるには、時間を要するかもしれない。劣っている作家も同じく。しかし、なんのためらいもなく言い切れるのは、この作家は、いてもいなくても、本誌はおろか別の媒体に対し、大きな影響を与えるわけがない、ということである。この作家の小説を読むたびに、私は、原稿用紙を製造する機械が、忙しなく動いているのがはっきりと見える。


     *     *     *


「はじめまして。突然、手紙を送ってしまい、ごめんなさい。『銃と海』という作品を読んで、わたしは、雷に打たれた思いでした。(二十二行省略)今後も応援しております」


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「それ、おもしろいの?」「わたしは好き」「ふうん……読んだら貸して」「いいよ」「あんた、小説なんて読まなかったのにね」「このひとの小説だけは、読もうかなって」


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《おれは、今年の夏のことを、ずっと覚えていたい。六つ子の夏。来年、もうひとり産まれてくる「夏」――グッバイ・ウチュウ。おれは、夏を選ぶよ。もう、おれに惚れてくれるな、ウチュウ》


     *     *     *


 鷺はいま、幸福ではなかった。しかし、不幸でもなかった。


「原稿用紙を買ってくる」


 雪曇りのなか、鷺は坂道を下りていく。雪ではなく、雨が降りそうだった。ガードレールから見下ろすと、そこには、ほこりを掃いたあとのような景色が広がり、その向こうには、水底でなまずがとぐろを巻いているような海がある。


 もうあれから二年も経とうとしているというのに、人波のなかで、灯夏に似たひとを見つけてしまう――ふとした拍子に、見つけようとしてしまう。

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