21

 鹿島と別れたあと悠は、莉緒に電話をいれた。が、莉緒は電話には応じずメールでのやりとりを強いた。それはもちろん、彼女が鷺と束の間の生活をしていることが影響していた。デートの約束はすんなりと決まった。いま莉緒の自由意志を拘束するものは、彼女自身の心の葛藤だけだったから。そしてその葛藤は、慾求に打ち克つには幼かったから。


   *   *   *


 悠と別れたあと鹿島は、聡美を迎えにいった。

「ハズバンドは、わたしでは勃たないから、勃つところへ行ったの。わたしは、勃つひとが迎えにくるのを待ってた」

 聡美は――莉緒の母は、鹿島の耳元でそう囁きながら、人混みのなかで恥じらうことなく首筋に舌を走らせて一本の道を作った。

「樹から蝉が堕ちるよりはやく、枯れないでちょうだいね」

 その風刺的な冗談に自尊心を傷つけられた鹿島は、悪意を隠しきれないえせ笑いをした。

「電車に乗る前に、もう一度遊ぼうか?」


   *   *   *


 鷺は紫檀の机の上に原稿用紙を十束ずつ並べて、ノンブルの順番に間違いがないかチェックをしていた。これらはすべて、手書きの原稿だった。この原稿に書かれている自叙伝的なものが、彼の手から成ったのだということを、著作権の概念に先立ちその筆跡において証明していた。


 松の陰に蝉がいるらしかった。遠くの林にいる蝉との音のズレが、鷺にはたまらなく不愉快だった。鷺が文学的な不能に堕ちようとしたとき、手を差し伸べてくれたのは、エゴイズムへと没入する慾求の駆動だった、その対象だった。自己を想うことと他者を想うこととは、ひどく距離のあることであって、両者を同一にしようとするのは、遠近法を使わずに写真のような絵画を描くような艱難かんなんを伴うものだ。


 いまの鷺は、エゴイズムを抱えこもうと必死になりながら、そこから勝手に解き放たれていく情緒や奔放さを意識せざるをえなかった。


「わたしは、だれのものなのかしら」

 四回目の戯れを萎縮させたのは、灯夏の深刻なほどに現実的な虚構のような呟きだった。

「私ね、一度だけ、しっかりとだれかのものになった気がするの……けど、すぐにそこから逃れたくなってしまう」

「自分は、自分のものでしかないよ。おれだって、同じような――」

「違う」

 感嘆符を打ってもよさそうな、余韻を断ち切ろうとする威嚇射撃のようなその言葉に、灯夏のすべての苦しみが詰まっていた。

「限られたコンセントに接続してもらえない電化製品のような感じ。動かない炊飯器と米を炊いている炊飯器は、名称が同じでも実質が違うじゃない。そういうの。そういう感じなの」

 あなたの小説に欠けているのは、漢数字のとローマ数字のとを、同じとしない努力――そんなことも灯夏は言った。

「さようなら、私」

 それは、寝言だったのか、わざと寝言を装ったのか、鷺には分からなかった。分かりたくもなかった。強く生きてほしい、そんなありきたりなことを想ったし、そのためなら、彼女の物語の主人公になってもよいという気もしていた。


   *   *   *


 作者というものは、作中の登場人物の生殺与奪を握っている権力者であるということを、忘れないでほしい。

 しかし、作者だって、なにか得体のしれないものに脅かされながら、一定の拘束のもとで物語を書いている。


   *   *   *


《ねえ、きっと、わたしを救ってくれるんでしょう。愛すべき、エイリアン》

 ――58頁、19-20行目


   *   *   *


 夕立が降りはじめる気配で眼をさました鷺は、千鳥足で縁側の窓を閉めた。むわっとした熱気にくらくらとした。


 玄関から「ただいま」という声が聞こえてきた。急いで、丸まったティッシュペーパーをごみ箱の奥へと押しこんだ。が、どうやらその声は幻覚であるらしかった。


 帰ってきたのは、現実だった。が、眠る前のものとは違うべつの意味合いの現実だった。その微妙なズレの正体は音声だった。いま、鷺の目の前に拡がりはじめている「現実」を発音しているのは、他でもない灯夏だった。


《ねえ、きっと、を救ってくれるんでしょう。愛すべき、エイリアン》

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