20

 さぎは小説家らしい批評を莉緒りおに披瀝することを、ひとつの楽しみにしていた。それは、莉緒の訓育家を自認しているからではなく、彼女だけが、抽象的で独善的で、公にするほどでもない私的な思考を、推敲をほとんど加えることなく滔々とうとうと弁じることのできる、唯一の芸術的同志であったからだ。が、この同志は芸術のために心身を犠牲にしようとはせず、人間的慾望の二次的な付属物として芸術を捉え、見かけ上の衛生を保つためにピアノを弾いていた。


 しかし、ふたりの芸術の位置付けが違うことこそが、鷺の悦楽を保証し、莉緒の自尊心に心地よい刺激物を与えていた。いわば、英語をすらすらと話せると自慢する自己が、英語を得意とする他者に、訳読の誤謬ごびゅうを指摘されたときに受けとる怨みの感情とは違い、フランス語の教育のある他者から不規則な動詞の変化を論じられているような、一面では興味がないながらも、もう一面では他者との能力の差異の道具として利用価値があると感じる、そんな相補的な関係性である。


「源氏物語が古典としていまに伝わっているのは、もちろん、印刷技術の進展と著作権の概念があるからで、そして、当時の風俗を理解する上での史料として役に立つからだよ」

「嫉妬ね。見苦しい」

「嫉妬は健全な感情だよ。うん、莉緒の言う通り、これは嫉妬だ。この嫉妬を、批評だの考察だのという言葉に置き換えて、別のレイヤーにしてしまうのは、照れ隠しみたいなものだと思う」

「言い訳ね。紫式部と批評家、両方に嫉妬しているんでしょう」

「だから、嫉妬は健全な感情だよ。手淫と一緒さ。嘔吐、下痢とも一緒」

「それ以上言わないで。気分が悪くなるから」

「嫉妬を罪悪とする教えはたくさんあるけれど、それがすべての証左だよ。光があれば、影がある。でも、光の中でも、影に覆われていても、ひとは呼吸できるし、手淫もできるし、嘔吐も下痢も――」

「はあ……こんなんだから、おじさんは、失恋するばかりなのよ。脱皮した蝉が死ぬまでの間に、二回もフラれてしまうくせに」


 紫檀したんの机の上では、夏らしく氷の入った麦茶がコップの透明性を簒奪さんだつしている。畳の上であぐらをかいている鷺は、何度もあくびをした。莉緒は紫の座布団の上で足を崩して、人魚の棲む湖に映写される樹の陰のような目線を、大皿に敷かれたティッシュの上にある最中もなかからはみ出た餡子あんこに投げていた。この最中もなかに拳を振り下ろしたら、鷺はどのような表情をするだろう。莉緒は、そうした好奇心に駆られることもあった。


「あと、一週間もいなきゃならないなんて、憂鬱だろう。莉緒はもう大学生なんだから、ひとりで留守番くらいできるだろうに、過保護なもんだ」

「おじさんのご両親だって、そうじゃない」

「ひとりで留守番をできない者どうしをくっつけて、暗にお互いを監視させているんだね。効率的な監視方法だよ。西洋的な言い方をすれば、パノプティコン型だな……ところで、これから買い物に行くんだけど、夜はカレーライスでいい?」

「甘口のなら」

「じゃあ、寿司でもとろうか。甘口のカレーは食えないんだよな」

「わたしは、光り物の寿司が苦手だけど」

「こういうところも、相互監視の一種だね。健康と不健康の二項対立を弁証させまいとする、おれたちを縛る愛すべき権力がしかけた、監視方法」


 鷺はごろんと仰向けになって、開け放たれた窓の向こうで、松の樹の輪郭を脅かそうと重苦しくなっていく暗い雨雲を眺めた。


「夕立とスコールは、名前が違うだけで、どっちも雨だよな」

「スコールの方が、ひどい雨なんじゃないの?」

 鷺は、窓を閉めないといけないと思いながらも、そのまま眠ってしまいたい気持ちになっていた。

「明日は、夜だけしかいらない。デートがあるから」

「夜に帰ってくるなんて、やっぱり過保護に育てられてるんだな」

「お父さんとお母さんへの感謝の証」

「そうか、そうか。じゃあ、おれも……」

 市街地の方に雷が落ちたらしい。それが号令になったのか、勢いよく雨が降ってきた。鷺は、連絡の取れなくなった灯夏のことを、ふと思いだした。三度目の戯れのときに、彼女の愉悦の声をかきけしたのは、明け方のスコールだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る