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しかし、ふたりの芸術の位置付けが違うことこそが、鷺の悦楽を保証し、莉緒の自尊心に心地よい刺激物を与えていた。いわば、英語をすらすらと話せると自慢する自己が、英語を得意とする他者に、訳読の
「源氏物語が古典としていまに伝わっているのは、もちろん、印刷技術の進展と著作権の概念があるからで、そして、当時の風俗を理解する上での史料として役に立つからだよ」
「嫉妬ね。見苦しい」
「嫉妬は健全な感情だよ。うん、莉緒の言う通り、これは嫉妬だ。この嫉妬を、批評だの考察だのという言葉に置き換えて、別のレイヤーにしてしまうのは、照れ隠しみたいなものだと思う」
「言い訳ね。紫式部と批評家、両方に嫉妬しているんでしょう」
「だから、嫉妬は健全な感情だよ。手淫と一緒さ。嘔吐、下痢とも一緒」
「それ以上言わないで。気分が悪くなるから」
「嫉妬を罪悪とする教えはたくさんあるけれど、それがすべての証左だよ。光があれば、影がある。でも、光の中でも、影に覆われていても、ひとは呼吸できるし、手淫もできるし、嘔吐も下痢も――」
「はあ……こんなんだから、おじさんは、失恋するばかりなのよ。脱皮した蝉が死ぬまでの間に、二回もフラれてしまうくせに」
「あと、一週間もいなきゃならないなんて、憂鬱だろう。莉緒はもう大学生なんだから、ひとりで留守番くらいできるだろうに、過保護なもんだ」
「おじさんのご両親だって、そうじゃない」
「ひとりで留守番をできない者どうしをくっつけて、暗にお互いを監視させているんだね。効率的な監視方法だよ。西洋的な言い方をすれば、パノプティコン型だな……ところで、これから買い物に行くんだけど、夜はカレーライスでいい?」
「甘口のなら」
「じゃあ、寿司でもとろうか。甘口のカレーは食えないんだよな」
「わたしは、光り物の寿司が苦手だけど」
「こういうところも、相互監視の一種だね。健康と不健康の二項対立を弁証させまいとする、おれたちを縛る愛すべき権力がしかけた、監視方法」
鷺はごろんと仰向けになって、開け放たれた窓の向こうで、松の樹の輪郭を脅かそうと重苦しくなっていく暗い雨雲を眺めた。
「夕立とスコールは、名前が違うだけで、どっちも雨だよな」
「スコールの方が、ひどい雨なんじゃないの?」
鷺は、窓を閉めないといけないと思いながらも、そのまま眠ってしまいたい気持ちになっていた。
「明日は、夜だけしかいらない。デートがあるから」
「夜に帰ってくるなんて、やっぱり過保護に育てられてるんだな」
「お父さんとお母さんへの感謝の証」
「そうか、そうか。じゃあ、おれも……」
市街地の方に雷が落ちたらしい。それが号令になったのか、勢いよく雨が降ってきた。鷺は、連絡の取れなくなった灯夏のことを、ふと思いだした。三度目の戯れのときに、彼女の愉悦の声をかきけしたのは、明け方のスコールだった。
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