19

 灯夏とうかの体温が自分の肌から退いていくような感覚のなかで、開け放たれた窓の向こうの明けてゆく空をじっと見つめていたさぎは、鈍重な彩りの鱗が剥がれていく人魚を遠くから眺めているときのような虚脱な調子で、「もし……」と一切れだけ言った。灯夏の視線は彼の方へと半ば自然に向けられた。


 いまの鷺の姿は、積もった雪の表面をかっさらっていく風に臆病づいた、桜の花弁のはねをした夏から秋へかけての過渡期に待ち受ける宿命に震える蝉のようだと、灯夏は思った。


「俺が、自叙伝を書くとして、灯夏とのこの一夜のことを描写するとしたら、どう書くといいんだろう」

「……書かないという選択はないの?」


 マホガニーの机にたたずんでいるワイングラスのなかには、まだ少しだけ鮮血のような葡萄酒ぶどうしゅが残っていた。この鮮血は、遠い遠い過去の、最初の営みの――プラトニック・ラブの帰結とでもいえるような交わりの比喩として機能しそうで、しなかった。


「抱いた女に抱かれているという気持ちが起こるのは、初めての経験だった。彼女との一夜は、特別なものだった。つまり、ディスイリュージョンだった。二夜目には肉体から生み出される快楽が無尽に昂ぶっていき、ふたりは一体の快楽機械のようなものへと様変わり、次の夜には、依存関係を持つふたつの人間へと分解されてしまうような交合へと昇華する、そんなイリュージョンを密かに期待していたからだ。そう、彼女は、そうしたストーリーを拒絶するように、ベッドのなかでふるまったのだ」


 鷺は目線を夜明けの空へと向けたまま、窓から入ってくる新鮮な風に身体の火照りが鎮められていく寂しさを感じながら、文字にしたいと思う文章を、先取って発音した。


「ひとりよがりね。私の気持ちを勝手に解釈して書き散らかすなんて……そんなことをしたら、酷い目を見るわよ?」

「酷い目……灯夏から受ける罰なら、なんでもいい。たとえ、俺が――」

「いったいどうしたの? 急に感傷的になったりして? べつに下手だとは思わなかったし、気持ちよくないこともなかった。ただ、私が気持ちいいときに、あなたは気持ちよくさせようと必死になろうとしているのが伝わったから……」


 鷺はなんとも言わなかった。灯夏は、ワイングラスに残っていた葡萄酒を飲み干すと、マホガニーの机の上に両手で枕を作り、冷えていく脳の容れ物を乗せて、窓の向こうへ眠たくてしかたのない目線を横向きに投げた。


「この国にきても俺は、堪えがたい不幸を背負いながら自らが設定した幸福を追い求めて……それを日常というフォーマットのなかで実現しようとしている。ようは、あっちにいたときの俺と、本質的になにも違わないことをしているんだよ。こうした事実が、俺の仕事に虚しさのようなものを与えてしまった」

「そういう経験を、気づきのようなものを、自叙伝みたいにして書きたいと思っているの?」

「どうだろう、とにかく、陽の当たらない真っ暗な陰のなかにいる俺のことを書きたいと思った。だってそれは、うそ偽りのない、だれにも書けないものを書くということだから」


 鷺は自分のワイングラスを逆さまにして、マホガニーの机の上に染みを作った。これもまた性的な隠喩に見えてしまうかもしれなかったが、灯夏には「日常」を想起させるだけだった。


「このグラスみたいに、透明になりたいって思うことがある」

「透明に……」

「そう、透明に」

「どういうことかは、言いたくないんでしょう」

「うん……俺にとって灯夏は、このグラスに残った水滴みたいなものなんだよ。これだけは言っておきたい」


 夜はすっかりと明けて、晴れやかな朝が訪れた。強盗のように、こちらの了解を得ることはなく。いったい、あの太陽の、どこに眼がついているのだろう。北半球を南に見ているのか、それとも反対に北だと認めているのか、その隠れた双眸そうぼうで。


 その問いは、鷺にとっては人生をかけて答えなければならない命題だった。それは、文学上の地平に逢着した、非文学という名を仮に与えられたエイリアンだった。…………




《例えば、戦国乱世を舞台にした小説を書こうと思ったとき、ぼくはその時代にある幻想を見出すだろう。言いかえるなら、実際的なものを、想像力の範囲内でとらえることで、ありもしない虚構を生み出すだろう。しかしそれは、ぼくの想像の外側の部分にあるかもしれない、書かなければいけなかったことを抑圧するだろう。ねえ、ぼくは、自分の経験したことのないことを書くという営みが、こわくなってきてしまった。ううん、自信がなくなってしまっているんだ…………》



 この世紀末の厭世に憑かれたようなセリフを言う主人公の破滅までの道筋を描いた小説は、鷺の遺作になるはずだった。しかし、ならなかった。


 遺作と思われたこの原稿が書かれているとき、灯夏はどこへいたのかと言えば、もちろん、彼の隣りだった、そして、彼とともに乱したベッドの上だった。


 愛情というものが本当に必要なのか分からないまま、満たされないものを満たそうという焦りを抱えながら、それでも満たされてしまわないことに注意しようとする自分をはっきりと見出しながら、彼の隣りにいた。…………

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