18

 薔薇が入っている花瓶を物憂そうに見ている少年が、本当に見ているのは、この絵を見ている灯夏であって、つまりこの花瓶に入っている薔薇は、ふたりの相互入れ替えが不可能であることの隠喩であった。


「それ、俺の姪がくれたんだ」

「あなたの……」

「そう、彼女はクリエーターなんだよ。ようは、神だよ。けれど、自分が神だったら、ややこしい責任を負わなきゃいけないから、ベレー帽をかぶって、あふれでる自我と全能を抑圧しているんだね」


 灯夏が見ている少年は、彼が頬杖をつくテーブルの上に乗っている蜜柑と変わらないモノで描かれているという点で、神が万物を創造したというテーゼと背反することはないが、絵を描くという行為をそう喩えることは、ある一定の反撥を彼女に抱かせた。


「その子は、神を信じているの? 神というのも、たくさんいるけれど……」

「信じるというのは、なにを?」

「存在。いるのかいないのかということよ」

「いなければいいのに、と思っているんじゃないか。だから、いると信じていると言ってもいいかもしれない」


 さぎは、彼女を想って淫したことがあるのだろうか。したとしたら、どのような状況を脳裏にこしらえたのだろう。声を押し殺そうとして噛んだ手首が熱く腫れていることが、堪えきれないくらい悔しくなる。灯夏は、白壁にひっかけられている窓のかわりのような正方形のキャンバスから眼をそらすと、ロッキングチェアに座る鷺を後ろから抱きしめようとした。


 しかし、鷺は上体を正して右手をあげて見せた。前の家のベランダで、男女がなにかを語らっている。たまたま、ふたりと眼が合ってしまったのだろう。なにを語り合っているのかは分からないが、窓から漏れる光の加減のせいか、ふたりが演劇の舞台にいるかのように見えている。


“According to this newspaper, his works suggest that stereotypical romance stories are not fair, not justice, and unmoral.”

“His works are just.”

“I agree and think that some people were born to romance stories.”


 鷺は「しかたがないことさ」という意味を込めた「くたばってしまえ」という言葉を、曇りの日の野火の煙のようにくゆらせた。




 灯夏はふと、学生のころに見た演劇のことを思いだした。それは、紂王ちゅうおうの妃である妲己だっきの物語であった。妲己役をしていたのは、灯夏の友人であったが、その友人の友人リストに灯夏は載っていなかった。


 その演劇のなかで、彼女の剥き出しの白い足で頭を踏まれ、ねっとりとした唾液を飲まされ、皮膚に食い込むくらいに緊縛された上で、薪にされていない男がいただろうか。


 あの露悪的な演劇の脚本家と彼女は、天鵞絨ビロードの幕の上がった終演後の舞台の上で、解放の悦びを謳いながら睦まじく融け合うこともあった。


 彼女の話す言葉は、いったん芝居を離れると、なんの魅力もない無味乾燥で無機質で栄養不足で煩雑で猥雑で騒々しい音韻の羅列になり、灯夏は彼女に冷評を与えない幾人かの批評家を軽蔑するしかなかった。なぜなら、その批評家たちは、人間性と演技が地続きではないという論考を超然として披瀝ひれきしていたのであるから。


 彼らは自らの内側にあるどうしようもない下品さや不道徳さを認められないから、下品で不道徳なものは人間性の外側にあって、その外側のものを人間性のなかに一時的に包摂することを芸術だと思っていたのだろう。


「灯夏はさ……こういうことをしたことはない?」

 彼女は、分厚いノートを灯夏の胸へと突き出した。灯夏がノートの真ん中を割ると、利用規約のように、章、節、項……というような形式で、いくつもの短文が箇条書きにされていた。


「これは?」

「神の言葉」

「神? なんの神様の……?」

「わたし。わたし、神だったの。神になったつもりで、教えを書いていたの」


 そういって彼女は、舞台道具の長煙管を舌で弄びはじめた。なめくじの妖精のように思えた。あるいは、なめくじの妖精に化けた紫色の輪郭を帯びた狐に見えた。


「あらゆる藝術は木星の環のようなものの上に地続きに存在しており、わたしたちは新しい藝術を作ったつもりでいても、それは既存の藝術と同じ地平にあるに過ぎない。よってそれは『藝術』と分類される。藝術家は、エイリアンと交信し交合し融解し、環の外側に新たなる環を作らなければならない……」

「それは、どこに書いてあるものなの?」

「いまのは、その聖典の文言に対する批判。その聖典の第六章の二節の三項に書かれている芸術論への批判。十代の想像力の限界みたいな芸術論への……」

「でも、これはあなたが書いたんでしょう?」

「うん、十代のわたしがね。でもいまは、十代じゃないから。むかしの自分の考えを持続して保てるわけがないじゃん。文字だけだよ。文字だけは、ずっと書かれたことを意味していると思いこんでいるから」


 なんと答えることがこの場合の無難な回答であるのか分からず、灯夏は黙っているほかなかった。それを見た彼女は、紫色のワンピースをめくりへそのくぼみに長煙管の吸い口を押しつけて、炎熱地獄に罪人を連れて行く獄卒のような笑みを浮かべて、畳まれた段ボールの束を見つめながら、「くたばってしまえ」と言った。


「……どうしたの、大丈夫?」

 彼女は小道具の長煙管を後ろの方へと投げた。そこら中にあるものを蹴り飛ばしはじめた。その音に駆けつけた劇団員たちに楽屋まで運ばれていった。

「三日くらい寝ていないんですって」

 楽屋の奥の畳部屋の上で泥のように眠る彼女の周りには、調和しがたい抽象的な概念の心霊が平伏しているように見えた。

 それからというもの、灯夏はだんだんと、彼女の外側へと離れていった。




 岩山の向こうから陽が昇ろうとしている。ふたりは汗ばんだ肌の上に相手の体温を残したまま、先ほどまでの息の合わなかった営みを回想していた。…………

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る