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 わたしは、一度と二度と、作者が物語の中に登場することはこれで最後にしようと言ったと思うし、そうしようと努めはしたのだが、この作品に長らく手をつけていないうちに、その決意をひとまず横に置いてしまうことにした。


 小説、ひいてはあらゆる文章にまつわる、書くという行為と読むという行為の差異は、作者の頭を悩ますものである。前者はほとんど一回性の行為であり、後者は二回以上、再現が可能となる行為である。この背反が示すことといえば、作者の意図とは別に、自由に文章は読まれ続けるということであり、その理解が一定のものとして位置づけられることもないということだ。時代に応じて、環境に応じて、もっといえば気分に応じて、読まれ方と解釈の結末は変化するのである。


 このことは、肯定的に捉えることのできる側面もあって、作者と読者の間に、物語をめぐるすれ違いが起こる以上の、何か爆発的な効果が期待される。ある文章が作者の手を離れて「浮遊する主体」になることは、予測不可能性の持つ可能性を最大限に引き出しうる。


 彼女は、彼からそのことを知ったし、わたしは、彼女を経由して彼からそのことを知った。


   ――――――――――――


 彼女は、――灯夏とうかは、空港を出るとタクシーに乗って、ホテルへと向かった。そして、ロビーから都市の往来を行き交う人々を、触りたくなくなるほどに磨きあげられた窓越しに見て、彼の小説の一節を思い出した。


《青春を打ち壊そうと乱交に挑んだ彼は、青春こそが一種の乱交であることを知った。だれかを恋し愛し、誓った永遠の結びつきこそが、オトナというものが背負うべき苦痛と悲哀の種である。なぜ、恋し愛し誓いを受け入れたふたりが、憎しみあわなければならなくて、時には無関心を装わなければならないのか。誰だっていい、他の誰かでもいい。恋し愛す対象を変えていく自由こそが、青春という表象に、なんら否定的な印象を持ちえない錯覚の唯一の根拠なのだ。…………》


 こんな厭世的で皮肉な文章を書く作家というのは、聖をとくすることを恐れない物質主義者なのだろうか。いま目の前で、彼がコンコンと叩いている人工の真珠のように磨き上げられた窓と、自分を裸にしたいと欲する男たちを受け入れてきたこの肉体とは、彼にとって一緒くたにできるものなのかもしれない。


 灯夏は、彼に手を振って見せた。だが、手首を動かしたとき、彼女は不思議と違和感を覚えた。それは、だれかの隆々とした肉体を押したり抱いたりするときとは、まったく違う意味を持った、鏡の中の陽をまとった手首の運動だからなのだろう。


 彼とはまだ、肉体の戯れを経験していなかった。三、四年前に、酔って気を大きくしていた彼が、「おまえで淫したことがあるんだ」という告白をしてから、すべてが灯夏には了解されていた。彼に「さぎ」という名前を付けたのは、だれなのだろう。


「よっ、まさか本当に来るとは思わなかった。ここに泊まるの? どれくらい?」

 鷺は、内ポケットから出した財布の中を調べながらそう言った。

「一週間と二日くらい、ここにいるわ……ねえ、わたしは、西へと行きたかったの。とにかく西へ。そしたら、東から行っても来れる場所に着いてしまったわ」

「地球って、そういうものだろう」


 ネクタイを緩めながら灯夏の横に腰を下ろしたさぎは、彼女が次に口を開くまで、窓の向こうの往来を見つめながら、黙りこんでしまった。


 ふたりは彼女が予約した部屋へと入った。そこは、ふたりでいるには窮屈すぎるところだった。熱に渇いた環状の光が窓の上に映っている。ふたりの身体が、暗い影をバスルームの方へと伸ばしている。

「あなたの家へ行きましょうよ」

 灯夏はそう言いながらも、彼の胸にすがり付いたままだった。さぎは右の手で彼女の手首を握って、左の手で彼女の頬をさすった。


 夕陽が岩山の向こうへと沈んで、群青がこの街を包みこんだときには、この部屋にはだれもいなかった。しかし、だれかがいたという空気だけは、この狭い空間から逃げ出すことができないようだった。

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