15

 ひとは生まれながらに殺人や強奪を否定する存在ではない。おおよそは教育によって道徳と法への依拠を後天的に授けられる。無知蒙昧な子供を啓蒙してわれわれの社会にとって都合のよい存在にしようと、大人たちとその悪い仲間は企てている。


 著作権の切れた楽譜を破り捨ててごみ箱にいれてしまうと、三橋莉緒は家庭教師のたくましい胸板にもたれかかり、ベッドまで後退させて、そのままそっと押したおした。そして緩やかに覆いかぶさると、彼の首筋によく濡れた舌をあてて、耳のほうへと舐めあげた。なめくじの足跡のような唾液は、開け放たれた窓から差しこむ日光に照り輝いた。


「先生はパンクロックとかきくの?」

 音大生の工藤悠は、いまどきのパンクロックの曲をひとつ口にした。

「それはオペラ」

 次に、有名なパンクロックバンドの代表曲を挙げた。

「それは童謡の異名」


 悠の唇は彼女の舌に押し広げられ、快楽的刑罰が執行された。解答権は永久に剥奪され、秀でた音楽の才能を褒めそやされてきたことで肥えていった矜持きょうじを、またもや保つことができなくなった。


 莉緒の唇は氷を塗っているかのようにつめたかった。悠の愛しているあのひとの唇は温度があるだけではなく、光をうければ輝き、性的で、それに触れてしまえばもう、あらゆる感覚はすべて神々の園へと旅に出てしまう。


 しかしあの愛しているひとの舌は、どこかつめたかった。からませあうたびに、つららのようなものの存在が意識された。一方で、莉緒の舌はあまりにも温かかった。無償の愛と同じくらいの安心感と多幸感をともなっていた。情熱的で家庭的で、一度だけの関係で終わりたいと覚悟できるほどのものではなかった。


 莉緒は大学生で、来年からは人文系の院に進むことを余儀なくされていた。あと半年だけが、ふしだらな遊戯を戒律として掲げた信仰の有効期限だった。ふたりはキスだけの関係だった。それ以上の営為を許可されるためには、莉緒の家族を啓蒙するしかなかった。


 多様な価値観を強制的に秩序化する時代は終わり、あらゆる主体は混沌のなかに埋没し、名称もなく定義もできない概念がまじりあった湖で溺れ愛しあうことこそ、ほんらい神々が望んでいたものだ――そう、啓蒙するしかない。


 唾液にまみれた唇からもれる湿った吐息は、媚薬のような甘さをともなっていた。

「パンクロックって、外へ外へと音を響かせるものじゃないと思うわ。内へ内へと切りこんでいって、自分の傲慢さをたたきつぶすものなのよ」

 莉緒はそんなことを言った。


   ――――――


 夕方、高級住宅街を抜けて大通りを駅の方へと歩いていると、悠の目の前に、鹿島があらわれた。あらわれた?――少なくとも悠には、そう感じられた。今度は、なにを奪われてしまうのだろうかと、悠は不安にならざるをえなかった。

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