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 それでも、灯夏は、鹿島の好きな食べものを作ることはなかった。だが、それは、水のいれられたペットボトルの使い道が猫よけだった、というような意味でしかない。


「わたしたち、これでよかったのよね」


 こうした、不安を体現した灯夏の言葉を、鹿島は何度も聞いた。しかし、鹿島の返答がいつも同じであることこそが、それを助長していると考えても差し支えないだろう。


「いい加減、覚悟を決めないか」

 その決まり文句にたいして、灯夏は複雑な顔をするものの、少し時間をおいてから、「そうよね」と独白するのが常だった。

「今日も、抱いてほしい」


 寂しい日より、不安な日の方が、灯夏は鹿島との肉体の遊戯を求めがちだった。しかしそれは、遊戯というより、傷のなめ合いのようなものに近くなっていた。


 この雪国でアパートを借りてから、もうすぐ三週間が経とうとしていた。ふたりは、すべてを清算する前から、一緒にいることを選んだ。


 もちろん、このことは、順序が逆だと思われても仕方ないかもしれない。だが、手続きを転倒させることでしか、保つことのできない悟性というものは、たしかにある。


 暴君が臣下の首をねるとき、そこにある正当性の根拠が、制度上の規定を参照するよりむしろ、それを濫用する暴君の力学の方に従属するように。




 鹿島は由紀に別れを告げるために家を留守にした。


 ひとりで過ごす灯夏は、慣れない雪国を一身で背負う運命のふところにいた。


 そんな灯夏の耳の奥に絶えず流れる、ある音楽があった。それは、小学生のときに、ピアニカで演奏した曲だった。即ち、幼稚園からの初恋に飽きたころの記憶であった。


 あのときに演奏した音色が、なぜ脳裏に反復し続けたかといえば、人生は、伏線しか売りのない小説のようなものだからだ。



 では、ありふれた文章を書いて、今回は終わろう。


 《鹿島は、五日経っても帰ってこなかった》



 いや、もう一文、記しておこう。


 《灯夏はその日、あの男と再会した》

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