6
灯夏は、絵馬に「きっぱり忘れたい」と書いた。その筆跡は、大樹を過去に押しこめた。
「死んだあいつのこと?」
鹿島は、彼女の爪の綺麗さに
「どうかしら。あなたが一番よく分かるはずだけれど」
「ぼくとのこと?」
そう鹿島が反問すると、朱の寂しさを
「こういうこと」
肉体の欲望だけではなく、精神の欲求までもが交合する間柄になってしまえば、この不倫という関係は真逆にふれてしまうであろうということを、ふたりは了解していた。灯夏が忘れたいものは、即ち、鹿島への精神的な繋がりを希求しようとしてしまう、自分の愚かさにほかならなかった。
一方で鹿島は、こうした灯夏の人間らしい感情に
(訣別。それは選択肢としてないものなのだろうか)
ふと、鹿島はそんなことを考えてしまった。そして、蜜柑の筋を取るような繊細さを要求する思考に対して、早急に結論を出そうとしている自分を発見した。
鹿島は、なんとかその思考を止めて、自分の絵馬に願いをしたためた。
「往生際が悪いわね。でも、この関係がより深くなっていけば、一番苦しむのはあなたなのだから。そんなことは書かなくていいわ」
そう灯夏は言って、鹿島のひじからしたへと指を
鹿島は灯夏の背中に手をまわし、少しうつむいた姿勢になり、灯夏は、それに応じて、鹿島を抱きしめながら、見あげる恰好をして――ふたりは、求めあった。
「けど……結ばれそうな精神の絲は裁ち切りましょう。あなたは、わたしの嫌いなところを教えて。わたしは、あなたの好きなところを言うから」
「どうして」
「繋がりそうな欲望を、すれ違わせていきましょう」
「それができるほどの付き合いではないだろう、ぼくたちは」
その言葉に、灯夏はあきらめたような笑い方をした。
「こうなるなんて、思わなかったわ。もしかしたら、適切な順番だったのかもしれない。肉体を交わらせたあと、精神がくっついていく。いい恋愛をしているのよ、わたしたちは」
まだ二度しか会っていない灯夏に、こんなことを言われるとは、鹿島には思いもよらないことだった。
「別れられる?」
「きみとじゃないよね」
「わかりきっていることを確認するのは、もう卒業したでしょう。その歳なら」
鹿島はいつの間にか、自分の絵馬を踏んでいた。そしてそこに書かれた文字はおろか、その存在さえ、すっかり忘れてしまっていた。
「これから、どうしようか」
「確かめてみましょう」
「確かめる?」
灯夏はうつむきながら、鹿島の踏んでいる絵馬を見た。一輪車に乗れることを自慢しながらも、本当は、三メートルしかこぐことができない、意地っ張りのような目をして。
「わたしたちの決めごとが、正しいかどうかをよ」
探偵が、自分たちを追ってきていたならば――鹿島は、そうした想像をしてみた。しかしそれは、火事場に集まる野次馬のようなものだと思った。自分たちは、燃えている家のなかにいるのだと、鹿島は信じきっていた。
「もし、正しかったとしたら、いま、あの子にかけている言葉を、わたしにちょうだい」
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