灯夏は、絵馬に「きっぱり忘れたい」と書いた。その筆跡は、大樹を過去に押しこめた。


「死んだあいつのこと?」


 鹿島は、彼女の爪の綺麗さにかれていた。その耀ひかりは、真珠というより数珠に似ていると思った。浄と怨が交叉こうさする営みの愉楽を貪る彼女の姿を、そこから想像した。記憶の土葬を執り行う、爪。


「どうかしら。あなたが一番よく分かるはずだけれど」

「ぼくとのこと?」

 そう鹿島が反問すると、朱の寂しさをたたえた笑みを見せてから、灯夏は鹿島の胸に身体を預けた。

「こういうこと」


 肉体の欲望だけではなく、精神の欲求までもが交合する間柄になってしまえば、この不倫という関係は真逆にふれてしまうであろうということを、ふたりは了解していた。灯夏が忘れたいものは、即ち、鹿島への精神的な繋がりを希求しようとしてしまう、自分の愚かさにほかならなかった。


 一方で鹿島は、こうした灯夏の人間らしい感情にせられてしまっていた。しかし、ひとたび通いあってしまえば、由紀との関係は破滅するに違いないことは、明らかだった。


(訣別。それは選択肢としてないものなのだろうか)


 ふと、鹿島はそんなことを考えてしまった。そして、蜜柑の筋を取るような繊細さを要求する思考に対して、早急に結論を出そうとしている自分を発見した。


 鹿島は、なんとかその思考を止めて、自分の絵馬に願いをしたためた。

「往生際が悪いわね。でも、この関係がより深くなっていけば、一番苦しむのはあなたなのだから。そんなことは書かなくていいわ」


 そう灯夏は言って、鹿島のひじからしたへと指をわせていき、彼の持っていた絵馬を地面に落とした。それは灯夏が鹿島に見せた、初めての優しさだった。


 鹿島は灯夏の背中に手をまわし、少しうつむいた姿勢になり、灯夏は、それに応じて、鹿島を抱きしめながら、見あげる恰好をして――ふたりは、求めあった。


「けど……結ばれそうな精神の絲は裁ち切りましょう。あなたは、わたしの嫌いなところを教えて。わたしは、あなたの好きなところを言うから」

「どうして」

「繋がりそうな欲望を、すれ違わせていきましょう」

「それができるほどの付き合いではないだろう、ぼくたちは」


 その言葉に、灯夏はあきらめたような笑い方をした。


「こうなるなんて、思わなかったわ。もしかしたら、適切な順番だったのかもしれない。肉体を交わらせたあと、精神がくっついていく。いい恋愛をしているのよ、わたしたちは」


 まだ二度しか会っていない灯夏に、こんなことを言われるとは、鹿島には思いもよらないことだった。


「別れられる?」

「きみとじゃないよね」

「わかりきっていることを確認するのは、もう卒業したでしょう。その歳なら」


 鹿島はいつの間にか、自分の絵馬を踏んでいた。そしてそこに書かれた文字はおろか、その存在さえ、すっかり忘れてしまっていた。


「これから、どうしようか」

「確かめてみましょう」

「確かめる?」


 灯夏はうつむきながら、鹿島の踏んでいる絵馬を見た。一輪車に乗れることを自慢しながらも、本当は、三メートルしかこぐことができない、意地っ張りのような目をして。


「わたしたちの決めごとが、正しいかどうかをよ」


 探偵が、自分たちを追ってきていたならば――鹿島は、そうした想像をしてみた。しかしそれは、火事場に集まる野次馬のようなものだと思った。自分たちは、燃えている家のなかにいるのだと、鹿島は信じきっていた。


「もし、正しかったとしたら、いま、あの子にかけている言葉を、わたしにちょうだい」

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