灯夏の戯れへの耽溺の欲望は、暦における彼女にとってのどの記念日よりむしろ、四季に敏感であった。だがそれは、動物的な本能の表徴ではなく、人間の本来のあるべき姿というよりほかはない。性的な営みが、繁殖ではなく風流を目的としているという点において。


 六月になったものの、あの葬儀の日――性の蘇生の日――から、鹿島は灯夏に一度も会っていない。彼にとって南は、まったくの空洞のままである。そこを通ったところで、鹿島の生殖器は清潔なままである。灯夏に何度連絡をしても返信はない。拡声器が声を肥大化させるだけの道具であるのと同じく。


 その一方で、由紀の性的な欲求の夜明けを報せる陽光が、山脈の稜線を走りはじめていた。これは鹿島にとって警戒するべきことであった。灯夏とのような肉体だけの繋がりではなく、すでに精神を連結させている由紀との交合は、鹿島に、汎家庭を志向させる可能性があった。


「手を貸してあげるよ」


 由紀は鹿島の背中から腕を回して、彼の腹を撫でた。犬を愛でるよりもむしろ、子供を褒めるかのようなその掌の動きは、北斗七星を解体しようとするかのような鋭利さをも具えていた。


 一方の極には快が、もう一方の極には畏怖があり、一本の糸として繋がっている。それを引っぱった瞬間に、その二極は並列して、理性だけが飛んでいくということは想像にかたくない。それゆえに、由紀の手を撥ねのけ、煙草の煙をあえて飲もうとする子供のような虚しさで、唾液を混ぜあうのである。


 鹿島が愛する小説家に共通するのは、接続詞に「しかし」を多用するということである。他方で、鹿島が嫌悪する哲学者はおしなべて、副詞の「とても」を濫用している。そうした文章への性癖、ひいては、文章で構築されたシステムへの性癖は、鹿島を、リアリスティックなロマンティストに仕立て上げるには充分だったが、ロマンティックなリアリストに形成することはできなかった。


 これは悲劇に違いなかった。蟻の隊列において、前の蟻が、後ろの蟻に見張られているように、ロマンティストは、たえず、リアリスティックにより監視されている。


「ねえ、ドラッグストアのゴムって、イメージがいいわよね」


 由紀は、朝、洗濯物を部屋に干しながら、鹿島にそう訊ねた。天候の崩れに不愉快さを覚えていた鹿島は、皮肉を頭のなかにこしらえようとした。しかし、この問いかけにたいする皮肉が、由紀との精神的な繋がりの摩耗を生じさせるに過ぎないということくらい、鹿島には分かっていた。


「宇宙はいいね。太陽をいつでも見られるから」


 ベランダの下をのぞけば、梅雨は傘を咲かせていた。


 由紀は思わず笑ってしまった。嘲笑というより失笑に近いが、失笑というより苦笑に似ていた。しかし、嘲笑と苦笑は共犯関係にあった。


「だとすると、お月様はかわいそうね」

「月は特権階級だよ。お太陽様なんて言われないんだからね」

「でも、お天道様と呼ばれているわ」

「それは、母音の前の"the"の発音のようなものだよ」


 こうした会話をしているうちに、鹿島は、由紀を抱きたいと思うようになってきていた。


「お皿を洗ってくれない?」


 由紀は、いつものように鹿島に頼んだ。


「そして、洗剤の香りで、かわいがってほしい」


 あとは時間の問題であった。鹿島の肉体と精神の志向は、家庭という権力装置により溶接される宿命にあるらしかった。


「わかった」と、鹿島が言いかけたときに、携帯電話が震動した。それはもちろん、灯夏からの連絡に違いなかった。そしてその震動は、鹿島に、「もしあの時に由紀の手を借りていたとしたら……」という"if"の、その帰結を想像させた。


「夢を見るの」


 ドラッグストアを向こうにした交差点は、車のライトが反射しあい、信号の赤と青が交錯しあいながら、水たまりに摩天楼を作っていた。


「あなたのために、髪をのばしている夢を」

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