「海にいきましょう」


 灯夏は、執拗に慰められた首筋を左手の人さし指でそっと撫でて、それを、紅い唇にあててみせた。その所作にこめられていた意味は、水平線より遠いところから、鹿島を見ている。


 しかし、その意味というものは、唇の遊戯による灼熱に渇き、雷雨に見放され、ひび割れてしまう。そして、断層から無機質な文字列が浮かびあがる。その文字列は、自由に解釈が可能なゆえに、ふたりが性的に読みかえさえすれば、そこに創造された愛が芽生える。


 創造された愛というものは、始まりから結末までのシナリオを――ある決定的な一点をのぞき――比較的に自由に決定できるだけではなく、それまで書かれてきた物語を修正することができる。不倫というものは、構築主義の換喩かんゆであって、小規模なナショナリズムであって、だれが敵で、だれが味方であるかを、即断的に峻別しゅんべつできる単純さをそなえている。


 しかし、その不倫というナショナリズムの亜種により確定した領域において、一切を司る主権がふたりに与えられる以上は、両者の関係は、唯一絶対の主権をめぐる内戦へと収斂しゅうれんされてしまう。その内戦は、休戦を誓おうが、すぐにその誓約が破られてしまう泥沼の戦闘である。


 その領域におけるふたつの主権は、ある関係性を希求する一点のみで同質のものである。それは、主従関係の固定化にすぎない。同じ領域内に二重の主権が発生する不倫は、この従と属をめぐる内戦を経験するしかない。これが、創造された愛の――ただひとつ――加筆修正できないシナリオである。


 灯夏は、海に行こうと誘っている。しかし実際は、砂浜におり立つのである。ここに、灯夏の隠された欲望が見え隠れしていると、鹿島は思った。灯夏は、一足飛びに、肉体的な欲求に溺れきりたいのだ。鹿島は、灯夏を哀れに思った。と同時に、灯夏を抱きしめて押し倒した自分をも、悲しい存在だと感じていた。


 灰色の流木に腰をかけた灯夏は、「まるで、あなたに座っているみたい」と言った。そして、「ねえ、あなたはこの流木に座れるかしら」とたずねてきた。それは、露悪的すぎる性的な換喩であって、鹿島と由紀のくだんの性的な事情と、その帰結としての鹿島の性的な作業とを、その一言でまとめあげている。


「座れない」と鹿島が答えると、「なら、この関係は続けるしかないわね」と言って、灯夏は目線を落とした。


 朝陽は、入江の大海をめらめらとかがやかせて、ふたりの輪郭をひからせている。もう、この海には生物は存在せず、まったくの立体造形作品へと変貌したかのようだった。風は死に、砂浜は黙っていた。


「わたしは東へ、あなたは西へ帰るでしょう。わたしたちはこれから、どこで会おうかしら。北? それとも南かしら?」

「北にしよう」

「なんで?」

「ぼくたちに必要なのは、雪だから」

「そうね」


 灯夏が座り直すと、枯れた流木の表皮が剥がれ落ちそうになった。


「あなたの一番好きな食べものと、嫌いな色を教えて」

 鹿島は、あえて灯夏の目を見ようとしたが、すぐに目をそらし、独り言のようにこたえた。

「なら、それを作らないし、その色の服を着て、あなたに会うわ」


 それは、ひとつの、よくできた警句であり、プラトニック・ラヴの変拍子だった。鹿島は、急に、灯夏を手放したくないと思いはじめた。それは肉体と精神のふたつの円が重なりあいはじめようとしている兆候であるというよりは、片方の円に閉じこもりたいと思う弱さの表われに過ぎなかった。


 ふたりはずっと、海を見ていた。海を見ているということで一致しているのなら、目を合わせる必要はそこにはなかった。


「やっぱり、これからは、南で会うことにしようか」

「そうね。南にしましょう」


 ホテルへと戻るために横切らなければならない、幅の広い道を、駆け抜けていく車はひとつもない。しかしそこを渡ろうとしたときに、なまぬるい風が車より速く、この道を通り抜けた。


「カメレオンみたいな要領で、相手にあわせて性癖を変えることができるの」


 鏡台で身だしなみを整える灯夏は、その後ろにいる鹿島の写像に向かって、そう言った。それが、この日に灯夏が発した最後の言葉だった。

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