ふたりは、Sを出発しXにたどりつく、欲望の横すべりの行為に夢中になろうとして、事実、そうなることができた。


 あのスペル――それを発音するときに、どこにアクセントをおくか。そうした微妙な差異が、その営為のパターンを過小に分類するにすぎない。しかし、あの快楽に、繊細な味の差はいらず、自己肯定感を持続させるための技量さえあれば、閉じこめられた空間での一種の言語ゲームは、愉楽かつ依存的なものとなる。


 灯夏とうかは、交合の終劇とほぼ同時に、栄養が不足した花弁がそうであるように、疲労のためにくきを曲げた。裸体のまま眠りに落ちた灯夏。一方で鹿島は、あの愉楽かつ依存的なものを、良心においてねのけることができなかったことを、いまさらながら悔いた。そして、そっとベッドを抜け出して、鏡台にそなえつけられた椅子を窓の方へともっていき、あるのかないのかわからない海を、じっと見つめだした。


 由紀は鹿島に肉体を許さなかった。交合の愉楽に溺れれば、ふたりの精神的な繋がりが、肉体的な結合へと鞍替くらがえしてしまうのではないかという恐怖に、由紀は脅えていた。避雷針がそうであるように、鹿島の欲望が自分に向けられたときには、それを自身の外側へと流してしまうのである。


 そうした由紀に欺瞞ぎまんを感じていた鹿島だが、その関係から降りることはなかった。気づけば、もう一年も由紀と付き合っていた。


 灯夏は、鹿島に抱かれたあと、「ねえ、続けるところまで続けてみましょうよ。この関係を」と言った。しかし鹿島は、それにたいしてなにも言わずに、ただ唇を重ねるだけだった。


 鹿島は由紀と離れることができなかった。たとえSからXへの横すべりを拒まれていたとしても、そのスペルを制限されたことによって、あらゆる言語表現が不可能になることにはならない。残りのアルファベットの豊潤な組み合わせは、その関係の持続を可能にするどころか、常に新しい単語を産出しようとする欲望を加速させていく。その創造的な作業の愉悦こそが、鹿島が由紀に過剰に接続する原因となっているのである。


 あのとき、灯夏は、鹿島を誘ってからこんなことを言った。


「まだ、彼のことが忘れられないの。これから彼を火葬しても、どうせ骨が残るでしょう。そうするとね……」


 灯夏もまた、精神的な繋がりまでをも鹿島に求めているわけではなかった。つまりふたりとも、肉体と精神が志向する対象が分裂していた。それがふたりを結びつきがたくしていたのだった。


「ねえ、続けるところまで続けてみましょうよ。この関係を」という灯夏の言葉。節分の日に、幼い子供が年の数だけ豆を食べるのが、束の間のことのように、ふたりの関係は、どこまでも延長することもなければ、まったく味が変化することもないだろう。少なくとも鹿島は、そう感じていた。


 鹿島は、寝たくなかった。もし、灯夏が自分より先に起きたときに、なにをされるのか分からないという恐怖があった。まさか殺されるわけはないだろう。灯夏がそんな狂気を、心身の影に隠しているようには、鹿島には思えなかった。しかし逆説的に、殺されるという選択肢が消えているからこそ、鹿島は脅えてしまうのだ。灯夏は、朝陽に照らされながら寝ている自分を見て、なにを思い、どのようなしぐさをするのだろうか。


 少しずつ、水平線の向こうから朝陽が昇ってきた。あたたかな陽光は、砂浜に打ち寄せる波の姿を明かしていった。夜は水底へと押しやられ、水面はまだらに燦爛さんらんと輝きはじめた。

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