危機
「……念のため確認しよう。これは古傷かい?」
「さっき、立つ時にぶつけました」
もちろん嘘だ。彼女は目を細め、捲っていた裾を降ろした。服の汚れから察してくるのだから、大したものである。
怪我としては内出血が見るからに痛々しい。それに動揺1つせず、彼女は顔を上げた。
「なら処置をしようじゃないか。部屋までおいで。肩を貸すから、掴まって」
「……ありがとうございます」
おや?
理由は問われなかった。この時は”処置してから聞くのかな”と思った。
部屋に入り、ソファに座る。彼女は手際良く動いていた。工程が進んでいく度にいつ来るかと身構えたが、実際は何も来なかった。
脚に保冷剤とタオルを巻いてくれた。それは感謝している。しかし、なぜ小依先輩は何も聞かないのだろう。それは有り難いのだが、同時に不気味でもあった。
まさか見ていた? いや、見たら助けに来るはずだ。一瞬でも彼女を疑った自分を恥じねばなるまい。では彼女は理由を知らないとして、なぜ一言も触れないのか。
「随分不思議そうな顔をしているね?」
「あ、いえ。すみません」
迂闊だった。俺の内心くらい、気づくに決まっている。それに俺の状況を鑑みれば、何が起きたかなんて大方想像がつくはずだ。
口を開く直前、彼女は人差し指を立て、自分の唇に当てた。片目をパチッと閉じてみせ、穏やかな笑顔を浮かべた。
「正直、理由は見当がついてる。でも本人から聞いて、確認したい、確かめたい、自説を検証したい気持ちもあるんだ」
「はい」
「でも、それで君を傷つけるのは……何というか、間違っているだろう? だから妥協案だ。もし話しても良いと思ってくれたなら、その時に答え合わせをしようじゃないか。これは提案だ」
ああ。やっぱり、この人は――。
「あっと、でも1個だけ要求があるんだ。最低でも1時間はここで休んでから帰ること。わかったかい? では何か飲み物を用意しよう。ココアなんてどうだい?」
一緒に選んだパッケージを見せながら、彼女はマグカップを手早く用意してくれた。俺は何も言わず、身動きもできなかった。
彼女は困ったように眉を寄せた。
「じゃあ紅茶は? 珈琲もある。緑茶とあと烏龍……」
「先輩」
自分でも驚くほど冷えた声だった。ぴくりと身を震わせ、小依先輩は口を噤んだ。不安そうな視線を受ける度、嬉しさと苛立ちが混じる。
要するに、俺は受け入れられないのだ。子供の癇癪に似ている。1人が嫌だと言いながら、いざ優しくされると受け入れない。
理由は簡単だ。1つは俺の性根が歪んでいるから。もう1つは、彼女の真意が掴めないから。元々『実験』が建前なのはわかっていたが、傷んだ精神がその事実を受け流せなくなった。
建前に過ぎないとしたのは、行動と性格が一致しないからだ。
確かに、彼女は確かに能力的には傑出している。他人に出来ないことを、成し遂げてしまう。
しかし性格は違う。好奇心が強く、変わり者。人並外れて優しい。それだけだ。女子高生にしては奇異かもしれないが、あくまでも常人の感性をしている。
「小依先輩。1つ、質問です」
「何でもどうぞ?」
「なんで俺なんかに構うんですか」
「実験だよ。前にも――」
「本気なら記録を見せてください。もし本当に実験なら、結果が記憶以外のどこかにあるはずです。似非科学が嫌いな先輩が、記憶頼りの実験をするわけがない」
彼女は俯き、動かなかった。
「小依先輩が優しくしてくれるのは嬉しいです。でも、同時に辛いんです。今まで実験だって誤魔化してましたが、もう無理なんですよ」
「どうしてか、聞いても良いかい?」
「先輩は優しすぎました」
冗談は言っていない。咳払いをしてから言った。
「小依先輩は、思ったよりも普通の人です」
「最近よく言われるよ」
「なら、普通の優しさには限度があるはずなんです。裏の無い優しさ、理由のない、無償の優しさの限界が」
「私が飛び切りの善人である可能性は?」
「ありますけど、それは普通の人じゃないですよね?」
買い物に行った時、小銭が出た。募金箱を彼女は無視した。
役立つけど命に関わらない研究結果を使って利益を得ている。
旅行の時に殴り込んだのは、”騙される被害者がいて許せない”ではなく”個人的に気に入らないから”だった。
「常識のあるしっかりした女子高生が、興味ない男子とデートしたり、恋人疑惑が出ても嫌な顔1つしなかったり、自室に招いたり、2人きりになったりすると思います? まして初対面に等しい状況で?」
「もういい、君の言い分は正しいよ。私の負けだ」
吐き捨てるような声を初めて聞いた気がする。しかし、その怒りは俺に向いてはいなかった。
「何がダメだったんだ。何を間違った、私は」
「俺の問題ですよ。小依先輩みたいなすごい人が、俺なんかに優しくしてくれる。その現実が辛いんです。俺なんかが先輩の価値を下げている気になるんです」
「そんなことは……」
彼女はそこで口を閉じた。どうにもならないことを悟ったのだろう。
沈黙と冷えた空気が暖かい部屋に充満していた。
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