・物作師見習いは準備を進める
家に着く頃には、完全に陽が落ちていた。一日ぶりの真っ暗な工房に、蝋燭の灯を点ける。今日出来ることは、マットレスの設計図を書くことだ。父さんがよく羊皮紙を使って書いているのを見たことがある。ただしあれは専属物作師としての仕事だったから、羊皮紙が何枚も使えただけで、僕が勝手に使っていいわけじゃない。とりあえず木材を薄い板にして、鉛筆で設計図を書くことにした。けれど……
「しまった、文字が書けない……!」
そう、僕は文字が書けない。図や寸法は書けたとしても、素材や部品の名前を書けなければ設計図としては通用しない。今までは父さんが書いた設計図を見せてくれていたし、分からない部分は口頭で教えてくれた。僕はまだ物作師見習いだから、文字なんて使うことが少ない。それに父さんがこれからも教えてくれる……と思っていたから。
……待て、物作師見習い?父さん?そういえば、物作師協会に報告ってされてるのかな?リンデロ様の専属だったから、多分リンデロ様が従者とかに報告をさせていると思うけど……それに僕がこれからマットレスを作るなら、それの報告も必要じゃないか?ああ駄目だ。考えるほど頭が痛い。後にしよう。
とにかく設計図に、マットレスの図を細かく書いた。縦の長さはリリー様の身長である1メトル55センチより余裕を持たせるから……2メトルほどあれば十分だろう。横幅は彼女が手を広げても大丈夫なように1メトル70センチほどで。厚さはバネの縦の大きさにもよるけれど、夢でみた彼女のベッドの厚さ程でいいだろう。確か20センチ程だったはずだ。
必要なのは細長く延ばされた……バネ鋼ってなんだ?頭の中に浮かんできたのはいいけれど……ピアノ線?楽器のピアノのことかな?どうやって手に入れればいいんだろうか。
どうやらマットレスに使われているバネの事を『ポケットコイル』というらしい。細長くした金属を渦状に巻いて、力が加わると反発する性質で身体が沈み込むのを押さえてくれるらしい。また、反発した際の圧力が一点に負担がかからないように、出来るだけポケットコイルをマットレスの形に敷き詰める。その上に防音とクッションになるような布を巻いて、寝心地が良くなるように調整も必要だ。
あと、このバネは布から突き破らないように、先を丸めなければならない。リリー様の御身体に傷をつければ今度こそ一瞬で首が飛ばされる。ああ、考えるだけで背筋が冷たくなった。
部品や材質の見た目を入れて、ある程度設計図を書き終えたら今日の作業は終了だ。工房に無い材料や道具は明日買いに行かなければ。商人たちがいる4番区に行かなくちゃいけない。それに出来るだけ金属加工のアドバイスを貰いに、父さんの知り合いだった物作師の先輩方にも話を聞きに行かなきゃ。布を加工することが得意な物作師は女性が多いので、父さんの知り合いはいない……と思う。どうしよう、いっそ貴族様のマットレスを作ったことのある物作師に話を聞いてみようか。あ、家畜区にも行かないと。鳥の羽毛なども見なければならない。
倉庫に残っていた乾いたパンをスープで溶かしたものを、夜ご飯にした。物作師は身体が基本。ちゃんとご飯を食べて、睡眠をしっかりとれなければ、いつか体調を壊してしまうし、事故も増える。父さんに言われた物作師の基本を頭の中で思い出しながら、僕はムグムグと口を動かした。
寝る前、一度父さんの部屋に入ってみた。父さんは物作師の仕事ばかりをしていたから、道具や設計図、メモ書きなどが多い。後は、これまでに作った物だろうか。買い手が見つからずに木箱に入ったままの物が沢山残っていた。僕は部屋の中を見回しながら、一つだけ気になる者を見つけた。ゴーグルだ。父さんが若い頃から使っていて、少し前に壊れてしまった物。指先で触れると、表面には埃が溜まっていた。近くにあった拭き布で埃を払って、そっと元の場所に戻す。
「父さん、僕……頑張るよ」
その日、また夢を見た。前に見た夢と同じ夢だった。少女と母親が出てきて、母親が出ていくと少女はベッドに飛び込んだ。今回はひたすらそのマットレスを撫でまわして、掌で何度も押して、耳を当てて、匂いを嗅いだ。
……匂いを嗅ぐのは別に僕が変態趣味を持っているわけじゃない。鳥の羽毛や動物の体毛、木の実などは匂いが発生しやすいんだ。特に動物の体毛はやばい。一日寝るだけで朝には自分が獣の大衆を纏っていることも多々ある。だから匂いを嗅いだわけであって、何度も言うけれど決して変態趣味でも邪な理由でもない。しかしこのマットレス。使われている素材はなんだろうか。構造などは理解したけれど、この『ウレタン』という素材は僕の世界にはない。それに鉄の塊はどうして勝手に動くんだろう。うーん……分からないことばかりだ。
翌朝、あの頭痛と共に目を覚ました。夢を見るようになって三度目だけど、この鈍い頭痛には慣れない。痛みで重くなった身体をなんとか起き上がらせて、朝食の準備を済ませる。今日の朝はスープがもう無かったので、カッチカチのパンを水でふやかして食べた。こんな食生活じゃ父さんに怒られてしまう。今日の買い出しは荷車を引いた方が良さそうだ。久しぶりだから、きっと身体は悲鳴を上げるだろうけど。
今日の予定は、昼までに買い出しを済ませてちゃんとしたご飯を食べる。昼過ぎから夕方までは、父さんの知り合いの物作師に話を聞きに回ろう。僕はあまり話したことがないから、教えてもらえるだろうか……。
外が朝市で騒がしくなった頃、少しの不安と膨らんだ期待を胸に抱いて、僕は荷車を引きながら家を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます