第23話 非日常の平穏 羊は安らかに草をはみ




「・・・うーん」



研一けんいちは眼を覚ました。



今は何時頃なのだろう?



カーテン越しの陽射しは今がお昼過ぎである事を告げていた。



研一は誰かの身体の重みを感じた。



寝ぼけまなこをこすりながら見るとかなでがスヤスヤと軽い寝息を立てていた。


その眼の周りは少しれていたが幸せそうな寝顔だった。


研一の頭はやっと昨夜の事を思い出した。


そして奏の寝顔を見ながらつぶやいた。


「母さん、僕らは長い長い眠れない夜にはならなかったよ」


研一はそう言いながら奏の髪を撫でた。


「・・・うーん」


奏は研一の手を頭に感じたのか、少し身体を動かす。

そして、ゆっくりと眼を開けた。

その眼は研一を確認したようだった。


「・・・研一さん」


奏は幸せそうな顔のまま研一の名を呼んだ。


「おはよう。良く眠れた?」


奏はこくりとうなずく。

その眼はキョロキョロと動き今の状況を把握しようとしているようだった。

すると、突然。


「キャア!」


と言って跳ね起き研一に背中を向けた。


「せ、せ、せ、先輩!あたしの寝顔を見てたんですか!」


奏は両手で自分の顔を隠している。


「女の子の寝顔を見てるなんて悪趣味にも程があります!」


そう言う奏の声は怒っているようでもあり、恥ずかしがってもいるようだった。

研一はそんな奏の声を聞いて少し安心していた。どうやら奏の心の中の穴はかなりふさがっているように感じられたからだ。

無論、全てが塞がっているとは思えなかったけれど。


「あー、ゴメン。僕もさっき眼が覚めたんだよ」


研一は素直に謝った。


「だから君の寝顔を見てしまったんだよ、ゴメンね。ところでこの客室には洗面所が無いんだよ。とりあえず洗面所に行かない?」


「・・・判りました。あたしの方こそゴメンナサイです」


奏はベッドの上に立ち上がる。

そして、研一に背を向けたまま改めて自分の着ているものを確認する。

それは大きな白いシャツだった。


「・・・これって先輩のシャツですよね?」


そう言ってクンクンと匂いを嗅ぐ。


「うん。母さんが用意したみたいなんだ。ウチには女の子は居ないから。嫌だったかな?」


「いいえ。先輩の、いえ研一さんの良い匂いがします」


それを聞いて研一は思わず笑みを浮かべる。


「ウソばっかり。ちゃんと洗濯してあるよ」


それを聞いた奏はクスクスと笑いだす。


「それ、あたしが言ったセリフですよ」


「あー、そうだったかも」


研一の言葉に2人は声を出して笑い合った。






「おはよう。昨夜は良く眠れたみたいだね」


リビングではスーツ姿の杏子が柔らかい口調で2人を出迎えた。

時計の針は午後1時過ぎを指していた。

とても「おはよう」と言える時間では無かったが。


「うん。グッスリと眠れたよ、僕も彼女も」


悪びれずに答える研一の横で奏は恐縮して身体を縮こませていた。


「・・・すみませんでした。初めてお邪魔したのに、こんな時間まで寝てしまいまして」


消え入りそうな奏の声を聞いて杏子は「アハハ」と笑う。


「ウチでは遠慮は無用。奏ちゃんも良く眠れたみたいで良かったよ。疲れは取れたかい?」


奏はそんな杏子の言葉を聞いて安心したように答える。


「はい。こんなにグッスリと眠れたのは久しぶりです。お陰様で身体も心もリフレッシュできたみたいです」


杏子は奏の言葉に満足そうに微笑む。

  

「アタシはね、あれから奏ちゃんの叔母さんとスマホで話してたんだよ。何か妙に意気投合しちゃってね。1時間以上も話し込んじゃったよ」


楽しそうに喋る杏子を見て奏も嬉しそうに言った。


「そうだったんですね!あたしはずっと思ってました。叔母さんと研一さんのお母様は同じ雰囲気がある、って」


その横では研一も「うんうん」と大きく同意している。


「その、お母様ってのはちょっと。アタシの事は「杏子さん」で良いよ。なんなら「杏子」って呼び捨てでも良い」


「判りました。「杏子さん」と呼ばせて頂きます」


奏の即答に杏子はとても優しい顔つきになる。

そして言葉を続ける。


「叔母さんとは今後の事についても少し話したんだ。それでね、奏ちゃん。アナタをウチでしばらく預かる事にしたんだよ」


「あたしを、ですか?」


奏は少しビックリしているようだ。


「そうなんだよ。本来なら奏ちゃんのお母さんの家に帰すべきなんだけど、奏ちゃんの親権はお父さんが持っている。離婚する時のお母さんの状態を考えたら仕方のない事なんだけど。だから、叔母さんとアタシで奏ちゃんの親権をお母さんに移す為に色々と動かなきゃいけない。ただ、それはすぐに出来るってモノじゃないんだ」


杏子はひと息つくと話を続ける。


「まず、この地域を管轄する家庭裁判所に親権者変更の調停または裁判を申し立てる必要がある。可能性は低いとは思うけど奏ちゃんのお父さんが異議を申し立てる場合は裁判になって、それが長引く可能性もある。そこで奏ちゃんに確認をしておきたいんだ」


「・・・あたしの確認、ですか?」


奏は戸惑ったような声を出す。


「そう。奏ちゃんは親権の変更。お父さんからお母さんへの変更を望むのか? って言う事だね。奏ちゃんも今年中には16歳になる。以前なら結婚だって出来た年齢だ。もう、子供じゃない。そんな奏ちゃんの意思を確認しておきたいんだよ」


杏子は真面目な顔つきで奏を見る。

奏はしばらく考え込んでいたが、杏子の目を見ながらキッパリと答える。


「はい。父は先輩を、いえ研一さんに殺意のある行動をしました。あたしは、もう父と一緒に暮らす事は出来ません」


そう言いながらも奏の身体は震えていた。

奏が望んでいた家庭は、もうかなわぬものとなったのだから。


研一はそっと奏の肩に手をかける。


僕が居る。

君の隣にはずっと僕が居る。

僕は君の手を絶対に離さない。


そう伝える為に。


奏も研一を見て微笑んでいる。

あたしも同じ気持ちです、と伝えるように。



「はい、そこまで」


杏子の大きな声が響く。


「じゃあ、奏ちゃんの意思は確認したからね。後は叔母さんとアタシに任せておきな。それでだね」


杏子はソファから起ち上がる。


「奏ちゃんのお母さんもいきなり奏ちゃんと一緒に暮らす、って言う事になると戸惑う面もあるだろう。お母さんはまだ療養中なんだし。これは奏ちゃんも同じ。気持ちの整理をつけたい事もあるだろ?」


杏子の言葉に奏はゆっくりと頷く。


「このマンションは奏ちゃんにとっては非日常だ。2週間くらいはこの非日常の中で自分の気持ちに折り合いをつければ良い。ゆっくりと焦らずにね。及ばずながらコイツも少しは役に立つだろう」


「コイツってなんだよ」


思わず研一は抗議表明するが杏子は意にも介さない。


「学校の方は心配しなくて良いからね。奏ちゃんのお父さんから休学届けが出ているから。ついでにアンタも1週間の休学届けを出しておいたよ。あの整形外科医に少し大げさな診断書を書いて貰ったからね」


「僕は、「ついで」かよ」


杏子は研一のツッコミに答える代わりにバッグから濃いピンクの財布を取り出して研一に渡す。


「何、これ?」


「明日、奏ちゃんと一緒に近所のショッピングモールに行って来な。このマンションでは若い女の子が暮らした事は無いんだ。奏ちゃんにも色々と必要なモノがあるだろ? まず衣服から揃えないと。奏ちゃんは昨夜の客室で寝泊まりして貰うつもりだけど、それでも良いかい?」


奏はいきなりの展開にポカンとしていたが、我に返ったようだ。


「あ、はい。でも、あたしの身の回りのモノなら父が出勤中に家から持って来ますけど」


そう言う奏に杏子は哀しそうな声で言う。


「奏ちゃん、あの家はもう奏ちゃんの家じゃ無いんだ。それにコイツが侵入したからお父さんは家の暗証番号を変えている可能性が高い。つらいとは思うけど、もうあの家の事は忘れるんだ」


杏子の言葉に奏は下を向いて黙り込んでしまう。

そして、絞り出すように小声で言った。


「・・・わかりました」


杏子は目で研一に「こっちに来い」と合図を送る。

研一はそれに従って2人は玄関に向かう。


「アタシは出かけるからね。奏ちゃんのフォローは任せたよ」


「判った。最善を尽くすよ。母さんも無理はしないでね」


杏子はそんな研一の頭をワシャワシャと撫でる。


「アンタは死んだあの人に似てきたよ。これまでそんな風に思った事は無かったけどね」


そう言って杏子は玄関から出て行った。





「研一さん。琴音ことねに電話してもよろしいでしょうか?」


リビングに戻ってきた研一に奏は明るい声で尋ねてきた。


「琴音って。・・・あぁ、君のクラスメイトのポニテの子だね。勿論、構わないよ。彼女も心配してるだろうし」


「・・・それから、あの」


奏は少しモジモジしている。


「どうしたの?」


「あの、明日の買い物に琴音も来て貰ってもよろしいでしょうか?」


奏は思い切ったように言う。


「何だ、そんな事か。勿論、構わないよ」


「あ、ありがとうございます」


奏は研一に頭を下げてからスマホで琴音と連絡を取り始めた。

幸い、琴音とはすぐに連絡が取れたようでガールズトークが始まった。

しばらくそこにいた研一は女の子2人のガールズトークを聞くのは失礼だ、と思い自室に移動した。


研一はリビングに戻ってからの奏の妙に明るい言動に一抹いちまつの不安も感じていた。


無理をしているな、と。


しかし、これは奏が自分自身で乗り越えなければならない試練でもあるんだ。

フォローと過保護は違う。

研一は過保護にならないように、それでいて奏からのSOSはすぐに感知できるようにと改めて自らをいましめた。






翌日の午前11時。



研一と奏は琴音との待ち合わせの為、ショッピングモールの入り口近くに造られた噴水広場に来ていた。


実はこの日の朝。


ここへ来る為の服選びが大変だった。

杏子が自分の若い頃に着ていた服が衣裳部屋に沢山あるからその中から選びな、と言うので探してみたが何と言うか奏が着るにはド派手な服しか無かったのである。

中には「夜露死苦」と書かれた真っ白なつなぎのようなモノまであった。杏子が言うには「特攻服」とか言うらしいが。


母さんはどんな青春時代を過ごして来たんだよ、と研一はツッコミを入れたが杏子は笑っているだけだ。

そんな中から比較的地味なワンピを選んだのだが、やって来た琴音には「えらく派手なワンピだね」と言われてしまった。

それから3人でショッピングモールでの買い出しが始まった。


琴音が「戦闘開始」と宣言してお店を回り始めたのだが、右腕を固定された研一は日曜日のせいか親子連れを含む大勢の人の中でうまく動けずに人酔いを起こしてしまったので各階に設置された休憩コーナーのような長椅子に座り荷物番をする羽目になった。そこには研一と同じような手持ち無沙汰ぶさたのお父さん達が暇そうに座っていた。

研一の所には奏と琴音が入れ代わり立ち代わりで様々な紙包みを持って現れて研一の横に置いていった。研一と琴音はすっかり仲良くなってしまって長椅子の上で話し込む事もしばしばあった。そんな時にはやって来た奏に「あー、またサボってるぅ」と少しヤキモチ気味に言われてしまうのであった。


「それでは次はランジェリーコーナーに突撃します」


と敬礼した琴音が言う。


「もぅ。そんな事わざわざ言わなくて良いよ。先輩、これで最後ですからもう少しお待ちくださいね」


そう言って奏は琴音と一緒に楽しそうに話しながらランジェリーコーナーとやらに向かう。


奏の髪と琴音のポニテが仲良く踊っている。



研一はそれを見て今日の買い出しを命じた杏子の意図を理解した。



これだけ沢山の買い物をするショッピングモールは完全な非日常の世界。




それに女の子にとっては新しい自分の居場所をいろどるものを自分自身で選ぶと言う作業はとても楽しいものであるらしい、と言う事も。




今の奏は新婚さんの新妻にいづまのような気持ちなのかも知れない。




そして。




今の奏の頭の中からは父親の暗い影は無くなっているだろう、と言う事も。





「しかしなぁ」





研一は自分も含めて周りの疲れたようなお父さん達を見回して呟く。





「これは完全に羊の群れ、って感じだなぁ」と。









つづく


羊は安らかに草をはみ


作曲  ヨハン・ゼバスティアン・バッハ





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