第17話 ごはんができたよ


ごはんができたよって かあさんの声がなつかしい

怒られてばかりいたけど とうさんも元気かしら

淋しかったんだ きょうも

悲しかったのさ きょうも

ちょっぴり笑ったけど それが何になるのさ


義なるものの上にも 不義なる者の上にも

静かに夜は来る みんなの上に来る

いい人の上にも 悪い人の上にも

静かに夜は来る みんなの上に来る


つらいことばかりあるなら

帰って帰っておいで

泣きたいことばかりなら

帰って帰っておいで





研一とかなではグッタリとソファーに腰かけていた。



無理もない。



あれから延々とキスを繰り返していたのだから。


それでも手を絡めてソファーに座る2人の顔には幸せそうな笑みが溢れていた。


2人とも幸福感と充足感に満たされていた。


このまま時が止まってしまっても良いと感じていた。



「あっ、いけない」


この沈黙を破ったのは奏だった。


「どうしたの?」


研一は間延びしたような声で尋ねた。


「もう、8時を過ぎてしまってます。どうしよう、先輩にあたしの手料理を食べて貰う筈だったのに。それにあたし達、帰って来てからシャワーも浴びてませんよね?」


奏がオロオロしたように言う。


「あ、そう言えばそうだったね。ゴメン、僕は汗臭かったよね」


研一はクンクンと自分の身体をいでみる。


「いえ、それはお互い様ですし。それに」


「それに?」


研一の問いに奏は恥ずかしそうにする。


「・・・先輩からは嫌な香りはしませんでした。何と言うか、頭がクラクラするような香りでした」


これには研一も赤面する。


「・・・僕には君の香りがとても可憐な花の香りのように感じられた」


「なっ!」


奏は耳まで真っ赤になる。


「と、とにかく先輩はシャワーを使って下さい。あたしはその間に急いで夕食の支度をします」


「いや、それはダメだよ」


研一の言葉に奏は「え?」と言う顔になる。


「女の子である君が先にシャワーを使うべきだ。夕食は何時になっても構わない」


奏はしばしポカンとしていたが、柔らかい笑みを浮かべた。


「・・・やっぱり先輩は先輩ですね」


研一はがんとして自分の主張を曲げない。


「さ、早くシャワーを浴びてきなさい」


「はい」


奏は嬉しそうに微笑む。


「それじゃ先輩はあたしのシャワーが終わるまでこのソファーで待ってて下さいね」


「夕食の支度で僕が手伝える事があるならやっておくけど」


研一は母の帰りが遅くなる事から夕食は母の分も自分で作っているので、それなりの料理の心得はある。


「ダメですよ。それじゃあたしの手料理にならないじゃ無いですか。それに下準備は出来ていますから実はそれ程時間はかからないんです」


奏はニッコリと微笑むと着替えを取りに2階の自分の部屋にトタトタと駆けて行った。

そして、しばらくすると着替えが入っているであろう手提げバッグを持ってトタトタと降りてきた。


「それでは、お先にシャワーを使わせて頂きます」


そう言ってペコッと研一に頭を下げる。


「長くなっても良いから少しでも身体の疲れを取るんだよ」


そう言う研一に奏は柔らかい笑みで答える。


「そちらの方は先輩がお帰りになってからゆっくりとお風呂に入りますから。あ、でもシャンプーはしたいので少し時間がかかるかもです」


「大丈夫。僕は構わないからね」


そんな研一の言葉に奏は再び嬉しそうな笑顔になって「お風呂場はこちらですから」と言いながら洗面所の横にある扉を開けて中に入って行った。


1人になった研一は母に連絡しようかどうか迷っていた。

この感じだと家に着くのは10時過ぎになるだろうからサスガに心配するかも知れない。しかし、女の子の家に居るとは言えない。何と言うか気恥ずかしいのである。

それで「友達の家に居る」とだけメールをしておいた。


母は今夜も飲み会だろうから自分よりも帰宅は遅くなるかも知れない。

「少し飲み過ぎじゃないの?」と言ってみた事もあるが「飲み会も仕事の一環」とピシャリと言い返されてしまった。まぁ、健康診断で特に異常は無いみたいだから大丈夫なのだろう。どんなに飲んでもだらしない姿を見せた事は1度も無いし。

何より母と口論して勝てる自信は研一には全く無い。




「お先に失礼しましたぁ」


研一がそんな事を考えていると奏が声をかけて来た。

昨日と同じような大きめの白いTシャツに今日は赤のショートパンツ。

髪の先はまだ濡れているように光っている。


「髪の毛、ちゃんと乾かした? 風邪ひいちゃうよ」


近づいた研一はドキッとした。

ボディソープとシャンプーの良い香り。

水滴を弾き飛ばすような瑞々しい肌はシャワーのせいか少し火照ほてっていて、さっきキスをした時とはまた違う健康的な色香に満ちていた。


「これくらいならすぐ乾いちゃいますよ。って、どうしたんですか先輩?」


奏は固まっている研一を小首をかしげて不思議そうに見ている。

この少女は自分がどれほど魅力的なのか、と言う自覚が無いのかも知れない。

研一は焦ったように言葉を絞り出す。


「あー、それなら良いんだけど。髪の毛はちゃんと乾かしてね」


「はい。次は先輩がシャワーをお使い下さい。あたしは1人っ子なので着替えがなくて申し訳ないのですが」


そう言って奏は持っていた手提げバッグから大きなTシャツを取り出した。

そして、頬を染めながら言った。


「これ、あたしのシャツなんですけど。1度しか着ていませんしちゃんとお洗濯もしてありますから良かったらお使い下さい」


「えっ、良いの? ありがとう。喜んで使わせて貰うよ」


研一も照れながらTシャツを受け取った。


「良かったぁ」


奏はとても嬉しそうに顔をほころばせた。


「タオルはお風呂場に新しいものがありますからそれをお使い下さい」


「ありがとう。じゃあシャワーを使わせて貰うね」


そう言って研一は風呂場に消えて行った。

残された奏は何やらブツブツと呟いている。


「・・・あたしの着てたシャツを先輩が着る・・・キャア!」


しばらく身悶みもだえていた奏はハッと我に返った。


「こんな事してる場合じゃない。早く夕食を作らなきゃ」


そう言って急いで冷蔵庫に向かった。


「ふぅ、気持ち良かった。シャワーありがとう」


研一がタオルで頭を拭きながら風呂場から出て来ると奏は花柄のエプロンをして台所で忙しそうにしていた。


「あ、先輩。もうすぐ出来ますから・・・」


奏は研一の姿を見て動きが止まった。


「・・・それ、あたしのシャツですよね・・・ホントに着てくれたんですね」


「うん、お言葉に甘えてね。君が着てたシャツを着させて貰って少し照れ臭いけど何か嬉しくもあるんだ。これって変かな?」


奏は大きくかぶりを振った。


「いいえ。あたしも嬉しいです。何か新婚さんみたいで」


「えっ!」


「あっ!」


2人は真っ赤になって動けなくなった。

奏は「あー、余計な事言っちゃったよぉ」と後悔するがもう遅い。

2人は必死になってこの局面を打開する言葉を探していた。



ピィーーッ



ちょうど良いタイミングで炊飯器のブザーが鳴った。

奏はこれ幸いとばかりにそっきの自分のセリフが無かった事のように炊飯器に駆け寄る。

それと同時にオーブンのブザーも鳴る。


「先輩。ご飯も炊けましたしグラタンも焼き上がりました」


研一も奏の雰囲気を変えようとする意図をくみ取って嬉しそうな声を上げる。


「そっかぁ。今夜はグラタンをご馳走してくれるんだね」


「はい。先輩は以前に仰ってましたよね。「ホワイトソースに憧れる」って」


これは本当の事である。

研一はホワイトソースに憧れていた。

自分が夕食を作る事に抵抗は無い。ただ、ホワイトソース系は研一には荷が重かった。ホワイトソースは作るのに手間がかかるしその用途も限られている。学生である研一は時間が無い事もあって1度に沢山の量を作って冷蔵庫に保存して、それに火を通して少しずつ食べると言う手法を取っている。そのような手法にはホワイトソース系の料理は不向きなのだ。


奏はオーブンを慎重に開けて焼け具合を見ている。

小さなスプーンでグラタンの中まで火が通っている事を確認する。

そして、ホッとしたような声を出す。


「大丈夫だと思います。特に失敗はしていないと思います」


「そっか。食べるのが楽しみだね」


研一の嬉しそうな声に奏も嬉しくなる。

奏は台所のテーブルの敷物の上にオーブンから取り出した熱々のグラタン容器を2つ並べる。それから2つのお皿に炊き立てのご飯をよそってそれぞれグラタン容器の横に置く。

最後にそれぞれのスプーンとミネラルウオーターの入ったコップを置く。


「先輩、お座り下さい」


奏は研一が椅子に座るのを確認してからエプロンを外して向かい側の椅子に座る。

2人の目の前には焼きたてのグラタンが美味しそうな匂いをかもし出している。


「それでは、いただきます」


2人は手を合わせて声を揃えて言った。

研一は早速グラタンにスプーンを入れる。

少し大きめの野菜と肉がホワイトソースとよく絡み合っている。


「熱いから気をつけて下さいね」


「うん。ふぅふぅ」


研一はスプーンを口に運ぶ。

ゆっくりと噛みしめて味を確かめている。

奏はそんな研一を固唾かたずを飲みながら見つめている。



「・・・美味しい。本当に美味しいよ」



研一の言葉に奏はホッとした表情になる。



「先輩。お世辞はいらないですよ?」



「お世辞なんかじゃないよ。今まで食べたグラタンで1番美味しいかも」



「それは言い過ぎだと思いますけど」



そう言いながら奏も満更まんざらではなさそうだ。




2人はお互いを見つめ合って、この上ない幸福感に満たされていた。








つづく


ごはんができたよ


作詞・作曲 矢野顕子

演奏・唄  矢野顕子




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