第16話 唇が奏でる旋律




かなでの言葉で時間が止まったように感じられた。




それは永遠のようでもあり一瞬のようにも思えた。




研一はその場に立ち尽くして奏を見ていた。




以前の研一なら逃げ出していたかも知れない。



しかし、奏に優しく抱きしめて貰いながら号泣した研一は明らかに変わっていた。


本人が自覚したように。


研一は冷静に奏を見つめた。


奏は両手を胸の前で組んで祈るように研一を見つめている。


その身体は小刻みに震え顔からは血の気が引いているように見えた。


それでも顔を上げ研一を真っ直ぐに見つめている。


すがるように。


研一はゆっくりと彼女の近くに移動した。


さして落ち着いた口調で奏に告げた。


「僕には君がけがれているようには思えないんだけど」


奏は研一の落ち着いた口調に少しは緊張がほぐれたようだった。

それでも奏は頑なに言った。


「・・・いいえ。あたしの唇はけがれています」


研一はそっと奏の背中に手を回した。

奏を驚かせないように。

奏は背中に触れた研一の手から暖かいぬくもりを感じた。


その温もりは奏の全身に広がっていくようだった。

それは奏を安心させるものだった。

奏の顔に本来の血色が戻ってきた。


「落ち着いた?」


研一は奏を気遣うように尋ねた。


「・・・はい」


奏は辛うじてそう答えた。


研一はゆっくりと奏をソファーに誘導した。

奏を座らせると自分はその隣に座った。

研一はまだ胸の前で組まれている奏の手に自分の掌を重ねた。


「良いよ。君が、奏が思ってる事を僕に話して」


研一の優しい声に励まされるように奏はポツリポツリと喋り始めた。


「・・・あたしが父とキス、いえ口移しをしていたのは話しましたよね」


「うん、初めて喋った日だったしね」


研一は奏の言葉を肯定するように頷く。


「あたしは初めて研一さんと喋る事が出来て。暗闇の中にいたあたしを引き上げてくれた事が嬉しくて。少し舞い上がっていたのだと思います。まだ、情緒不安定な頃でしたから。だから、言わなくても良い事まで言ってしまって」


そこまで話して奏は下を向いてしまった。

研一が掌を重ねている奏の組んでいる手が震えている。

研一はそんな奏を肯定するように言った。


「そんな事は無い。むしろ秘密にされてる方が嫌だったかな」


奏は驚いたように顔を上げた。


「研一さんは、あれを聞いて何とも思わなかったんですか?」


「何とも思わない訳はないよ。だけど」


「だけど?」


奏の畳み掛けるような問いかけに研一は答える。


「僕としては秘密にされてる方が嫌だった。だから話してくれて、ありがとう」


そう言って研一は奏に微笑んだ。

呆気にとられているような奏の顔が少しほころんだ。胸の前で組んでいた両手からも力が抜けていくようだった。

そして小さな声でささやいた。


「・・・やっぱり先輩は先輩でした」


それから研一を真っ直ぐに見つめた。


「あたしは研一さんにきちんと話したいんです。研一さんの目を見ながら」


「うん。僕も話してくれると嬉しい」


奏は研一の言葉を聞いて安心したように両手を膝の上に置いた。

研一は膝の上の奏の手に再び自らの掌を重ねる。

奏は「ふうっ」と大きな息を吐くと研一を見つめながら話し始めた。


「父があたしに口移しをするようになったのは、あたしが小学校に通い始めた頃だったと思います。父は家に居る事があまり無くてあたしにもあまり関心が無いようでした。そんな父があたしに関心を持ってくれるようになった事が嬉しくて、あたしは父と口移しをしていました。口移しをするたびに父は「お母さんにはナイショだよ」と言って微笑んでいました。あたしは父の笑った顔を普段は見た事が無かったので、それも嬉しくて「母に悪い」と思いながら口移しを続けました。あたしは「これはイケナイ事」と知りながら、その背徳感を楽しんでいたのだと思います」


そこまで喋って奏はひと息ついた。

奏は不安だった。

自分が背徳感を楽しんでいた事も話してしまったから。


でも、目の前の研一の態度は変わらなかった。

優しい目で話をする奏を見守ってくれているようだった。

奏はそんな研一から話の続きをする勇気を貰ったように感じた。


「あたしが3年生になるくらいから、あたしは両親が不仲である事に気づきました」


奏は再び話し始めた。


「4年生になる頃には怒鳴り合いの喧嘩をするようになり、5年生になると母のあたしを見る目が変わり始めているのに気づきました。これは今日、研一さんと一緒に母の話を聞いて解決しましたが。ただ、当時5年生のあたしにそんな事が判るはずも無く・・・。重度の鬱とアルコール依存症の母はあたしにとっては見知らぬ他人としか思えませんでした。そんなあたしは父との関係を強めるしか選択肢はありませんでした。あたしがあたしの居場所を得る為に」


奏はそこで言葉を切った。

恐る恐る研一の様子を伺うように。

研一は自分の意見を述べた。


「それは仕方のない事だと思う。小学5年生の女の子が自分の居場所を求めるのは当然の事だと思うし」


研一の意見を聞いた奏は安堵したような表情になった。

しかし、すぐにその表情は硬くなった。

研一は奏の手の上に置いている掌で奏の掌を握った。


「心配しないで。君、いや奏が何を話しても僕はこの掌を離さない」


「・・・はい。先輩を研一さんを信じています」


お互いを見つめ合ってから奏は続きを話し始めた。


「父はあたしが6年生になると、あたしの胸やお尻を触ってくるようになりました。あたしに第2次性徴が現れ始めたからだと思いますが。あたしは嫌でしたけど我慢しました。それがあたしが生きていく為にあたしが下した判断でした。中学生になると父の行為はエスカレートして来ました。あたしは自分の精神を護る為に自分の感情にふたをしたのだと思います。あたしの心も病んでいたのでしょうね。その頃の記憶はかなり曖昧あいまいなものになっていますから。あたしは現実から目を背けて逃避していたんです。父があたしの口の中に舌を入れて来るのも受け入れました。本当はとても嫌だったのに、気持ち悪かったのに。あたしは自分が生きていく為に人として女の子として大切なものをてたんです。裏切ったんです。・・・だから、こんなあたしはけがれているんです」


奏の目から涙がこぼれ落ちた。

その涙は奏と掌を握り合っている研一の掌も濡らした。

研一は口を開いた。


「話してくれてありがとう。君にとってはつらい事なのに」


研一の言葉に奏は小さく首を横に振った。


「・・・こんな事を話せるようになったのは先輩、研一さんのお陰なんです。だから、あたしを清めて欲しいんです。研一さんと一緒に歩いて行く為に、生きていく為に。これはあたしの通過儀礼なんです」


奏は、はっきりと口にした。

その言葉には「これだけはゆずれない」と言う奏の決意も感じられた。

研一も覚悟を決めた。


「君の言いたい事は判った。ただ、僕の言いたい事も言わせて欲しい」


奏が「何かしら?」という顔になった。

そんな奏に研一は叫ぶように言った。


「僕は君が好きだ!奏を1人の女の子として大好きだ!」


「・・・・・・・」


しばしの沈黙が流れた。


奏は固まっていた。

固まった奏の目から大粒の涙が溢れだした。

奏は研一に抱き着いた。


「あたしも先輩が好き!研一さんを1人の男の人として大好きです!」


2人はしっかりと抱き合った。

それからお互いを見つめ合う。

そして、研一はゆっくりと自分の唇を奏の唇に重ねた。



奏の唇はとても柔らかくて甘い味がした。



唇を離した2人はしばし呆然としていた。


「・・・キスがこんなにスゴイとは思わなかった」


研一がポツリと呟く。


「・・・あたしもです。口移しなんかとは全然違う」


奏も驚いたように呟く。


「あの、研一さん?もう1度清めて・・」


研一は奏の言葉が終わらないうちに唇を重ねた。



2人はこれまでに感じた事のない幸福感と充足感に満たされていた。


こんな感覚は生まれて初めてだった。


2人の頭の中には2つの唇が奏でる旋律が響き渡っていた。



唇を離した2人は真っ赤になってうつむいた。


何故だろう?


キスをする前より心臓がドキドキしている。


キスをする前より何かとても恥ずかしい。



「・・・あの?」


「・・・はいっ!」



研一は真っ赤な顔で奏に尋ねる。


「・・・えっと。もう1度、清めても良い?」


我ながらマヌケなセリフだ、と研一は思った。


奏も耳まで真っ赤にしながら、それでも嬉しそうに答える。


「はい!喜んで!」



それから延々とキスを繰り返す2人であった。




しかし、奏よ。


夕食の準備をしなくて良いのか?







つづく




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