第18話 目覚めよと呼ぶ声あり




「ごちそうさまでした」



研一は満足気に言うとスプーンを置いてミネラルウオーターを飲み始めた。



「はい。お粗末さまでした」



かなでも嬉しそうにミネラルウォーターのコップを手に取る。



「ホントに美味しかったよ。これまで食べた中で1番」


研一はミネラルウオーターを飲み干すと力説する。


「ですから、それは言い過ぎですよ」


奏は照れながらミネラルウオーターを口に含む。


「いや、これには明確な理由があるんだ」


研一が真面目な顔つきになる。

奏は「なんですか?」と言う顔をしている。


「その理由はね」


研一は勿体もったいぶった口調になる。

奏は「なに?」と言う顔でコップを置く。


「それは・・・君が作ってくれたグラタンだから!」


「ブッ!」


研一の言葉に奏は口の中のミネラルウオーターを吹き出しそうになり、慌てて両手でふさぐ。

奏は咳込みそうになりながら涙目で研一に抗議する。


「もぉー、冗談は辞めて下さい。吹き出しそうになったじゃないですか」


しかし、研一は平然としている。


「ホントにそう思ったんだから仕方ない」


研一の言葉に奏は頬を染めながら横を向く。


「ホントに先輩はそう言った事を平然と口にするんですから。でも」


「でも?」


研一の追及に奏は頬を染めたまま小声でささやく。


「・・・本当にそう思って下さるなら、あたしはとても嬉しいです」


研一は椅子から立ち上がって身を乗り出す。


「本当に美味しかったよ。ありがとう」


奏も椅子から立ち上がって身を乗り出す。


「あたしこそ、ありがとうございます」


見つめ合った2人は自然に唇を重ねる。



今度のキスは少しホワイトソースの味がした。



それから研一は奏の制止を振り切って2人分の食器を洗い始めた。

「これくらいはさせてよ」と言う研一に奏も折れて自分はオーブンの掃除やテーブルを拭いたりと食後の後片付けをした。

時刻は午後10時になろうとしていた。


「今日はこんな時間まで本当にありがとうございました」


玄関口で奏が頭を下げる。

また、奏の髪が踊っている。

研一はそんな事を考えながら言った。


「いや、僕は君の役に立てたかな?」


「当たり前じゃないですか!」


奏は間髪入れずに答える。


「先輩がいらっしゃらなければ、あたしは母とは会えなかったかも知れません。話をする事も出来なかったかも知れません。あたしはずっと母の事を誤解したままだったのかも知れないんですから」


「うん、そうだね。ちゃんとお母さんと話せて良かったね。そして、お母さんが君の事を愛してくれている優しいお母さんである事も判ったし」


研一は奏に話しながら自分の母の言葉を噛みしめていた。


視野を広く持て、とはこう言う事かと。


今回の場合でも奏の父親の話だけでは全体像は掴めなかっただろう。

特に父親の異常性には。

物事の本質を見極めるには色々な人の意見を聞く事が如何いかに大切な事かを思い知らされた。


「・・・それに」


奏が恥ずかしそうに何やらゴニョゴニョ言っている。


「え? なに?」


聞き返す研一に奏は赤面した顔で言った。


「先輩、いえ研一さんの方から告白してくれて嬉しかったです」


モジモジしている奏を見ていると研一も赤面してしまう。


「あー、あれはね。やはり男である僕の方から言いたかったし」


研一は恥ずかしさを紛らわす為にキッパリと言った。


「・・・はい。それで、その。あたし達はこ、恋人同士で良いんですよね?」


奏は言わずもがなの事を聞いてくる。


「うん。そもそも恋人同士でなければキスなんてしないし」


研一は堂々と言った。

何だろう?

自分でも以前の自分とは変わっている事を自覚しているように感じる。


「ありがとうございます。研一さんがハッキリと言って下さってあたしも実感できます。研一さんとあたしは恋人同士なんだって」


奏は心の底から嬉しそうな微笑みを浮かべる。

研一はそんな奏を見て覚悟を決める。

僕はこの子を護るんだ。例え何があったとしても。


「先輩は明日の午後は何か予定はありますか?」


奏は唐突に尋ねてくる。


「いや、特に無いけど」


「でしたら」


奏は身を乗り出してくる。


「先輩と一緒に行きたい場所があるんです。そこはあたし達には重要な場所なんです。ダメでしょうか?」


こんな言われ方をしたら研一は断る訳にはいかない。


「判った。これは僕達にとっては恋人同士としての初デートになるのかな?」


「あっ、そうですね。そう言う事になりますね」


奏はとても嬉しそうに微笑む。


「遠い場所では無いですし。動きやすい服装が良いんですけど、今の先輩の服装で大丈夫だと思います。待ち合わせ場所は駅前広場で。時間は午後2時で如何でしょうか?明日も雨の心配はなさそうですし」


「了解。お互いに都合が悪くなったらスマホで連絡しよう」


研一の言葉に奏は顔を輝かせる。


「わぁ。スマホ解禁ですね」


「そりゃ、恋人同士だからね」


そして、2人は「おやすみなさい」のキスをして研一は奏の家を後にして自宅への帰路についた。






数10分後。



研一は自宅のマンションを眺めながらため息をついた。


「あー、やっぱり母さんは先に帰ってる」


7階にある研一親子の住んでいる部屋にはあかりがともっている。


研一はこんな遅くに帰宅した事は無いし「友達の家に居る」と言うメールもバレバレだろう。

研一にそんな親しい友達がいない事は母はよく知ってるだろうし。

何より母には研一の隠し事などは通用しないのだ。


「まぁ、なるようになれ。だ」


研一はマンションのエントランスに向かった。

このマンションには研一が小学3年生の時に引っ越して来た。それまで住んでいた一軒家は土地も含めて売却した。父を6歳の時に亡くした研一親子には一軒家は広すぎたし、税金やらなんやらで母は手放す事にしたらしい。

母はこのマンションを「掘り出し物」と威張っていたが確かに駅から徒歩5分で当時築3年のマンションとしては破格の値段だったらしい。内装も茶色をベースにしたシックなデザインで研一も気に入っていた。


エントランスで部屋番号を入力してから暗証番号を入力する。

入り口のガラス扉が開くとすぐにエレベーターで7階に上がる。

自宅のドアの横のパネルに暗証番号を入力する。研一は唾を飲み込むと何事もなかったようにドアを開ける。


「ただいま。遅くなってゴメン」


台所から灯りが漏れている。

研一はスニーカーを脱いでスリッパに履き替えると台所に向かう。

そして平然とした態度で台所をのぞき込む。


「遅くなってゴメン」


目の前にはテーブルの椅子に座って酔い覚ましの為かスポーツ飲料を飲んでいる研一の母親である高見杏子たかみきょうこが居る。

杏子は今年で38歳になる。学生時代の21歳の時に研一を出産しているから同級生の母親と比べても杏子は圧倒的に若かった。スゴイ美人と言う程では無いがそれなりに整った顔立ちをしている杏子はいつも実年齢より若く見える。

そんな杏子がジロリと研一の顔を見る。


「珍しいね。アンタがこんなに遅くなるなんて」


研一は動揺を隠しながら答える。


「メールを送っただろ。友達の家で遅くなって」


「フフン」


杏子は研一の答えを鼻で笑って返す。


「正直に言いな。女の子と一緒に居たんだろ?」


「そんな訳ないだろ」


堂々と答える研一に杏子は「おや?」と言う顔になる。


「何か今夜のアンタはいつもと違うね。・・・ひょっとして童貞卒業しちゃった?」


「バ、バカ!キスだけだよ!」


思わず怒鳴ってしまった研一は「しまった」と口を手で塞ぐがもう遅い。

杏子はニヤニヤと研一を見ている。

研一は赤面して立ちつくしてしまった。


そんな研一を見ていた杏子はそっと椅子から立ち上がって研一の近くまで来た。

そして笑みを浮かべながら優しく研一の肩に手をかける。


「・・・良かったね。アンタみたいなヤツでも良いって言う優しい女の子で」


「・・・その「アンタみたいなヤツ」は余計だよ」


そう言って研一も照れ隠しの笑みを浮かべる。

しばらく親子は微笑みながら見つめ合った。

そこには母と子の確かな愛情があった。


杏子は自分が座っていた椅子に戻ると自分の向かい側の椅子に研一が座るように指で促す。

それから研一の為のコップを置くと冷蔵庫からペットボトルを取り出して研一のコップと自分のコップにスポーツ飲料を注ぐ。

研一が椅子に座ってコップの中身を飲み干すのを待って杏子は口を開く。


「アタシはアンタのプライベートに口を出すつもりは無いから。こう見えてもアンタの事は信用してるし。ただし」


そう言って空になった研一のコップにスポーツ飲料を注ぐ。


「ただし?」


研一も杏子がコップに口をつけるのを待って尋ねる。


「その子を悲しませたり泣かしたりするんじゃないよ。アンタが護るんだ」


杏子の言葉に研一は胸を張って答える。


「勿論だよ。彼女は僕が護る。全力で」


そんな研一を見ている杏子が不思議そうな顔をする。


「ホントに今夜のアンタは今までのアンタと違うね。1つからを破ったと言うか。うーん」


杏子は腕を組んで考え込んでいる。


「何? そんなに僕は変わったかな?」


研一も自分自身が変わった事は自覚しているがえて聞いてみる。


「アンタにも「目覚める時」が来たのかもね。目覚めよと呼ぶ声あり」


「なんだよ、それ?」


研一は笑うが杏子の目は笑ってはいない。


「人間って言うのはね。生きている限り成長し続ける生き物なんだよ」


「生きている限り?」


杏子はコップの中身を一口飲んで言葉を続ける。


「そうだよ。精神面の問題だけどね。人は何歳になっても成長する事が出来る。そして逆もまたしかり。図体ばかりデカくて中身は子供、なんてのはゴロゴロしてる」


「それは母さんの実体験から?」


研一もコップを口に運ぶ。


「まぁね。実はアンタの事も心配してたんだ。アタシは仕事一辺倒だったからね」


「・・・それは仕方ないよ。母さんは女手1つで僕を育ててくれた。それは本当に感謝してる」


杏子はふっと笑みを浮かべた。


「アンタは優しいからね。でも繊細すぎる側面もあった。それで心配してたんだけど、どうやら殻を破ったみたいだね。それは彼女さんからの影響かな?」


「・・・そうかも知れない。僕らは支え合って生きる、って決めたんだ」


すると杏子は満足そうな笑みを浮かべた。


「それならアタシから言う事は何も無いね。アタシはアンタも彼女さんの事も信じてるから。おっと、大切な事を言い忘れてた。本当に困った時はアタシを頼りなさい。周りの信用できる人達を頼りなさい。どんな時でもあきらめないで視野を広く持って」


「うん、ありがとう。母さん」


そう言って自分の部屋に戻ろうとした研一は振り返った。


「母さんの会社って半導体製造に欠かせないものを作って輸出もしてるよね?」


「なんだい、やぶからぼうに。あぁ、そうだよ」


研一ははやる気持ちを抑えるように尋ねた。


「その、四井物産よついぶっさんの山岸って言う部長さんを知ってる?」


「アンタも妙な事をくねぇ。山岸さんはウチの担当者だよ。あの人は切れ者だけどアタシはちょっと・・・って、何でアンタが山岸さんを知ってるんだい?」


杏子は怪訝けげんそうな顔になる。

しかし、研一は質問を辞めない。


「それって母さんの会社の製品で山岸さんの会社が利益を出してるって事だよね? つまり山岸さんにとっては母さんの会社は重要な取引先なんだよね?」


「まぁ、形の上ではそうなるけどね。相手は天下の四井物産だよ? 最もウチの会社と取引したい、って言って来たのは山岸さんだけどね」


研一はそれだけ聞けば充分だった。


「ありがとう、母さん。明日も予定があるからもう寝るよ。おやすみ」


「はいよ。今夜はゆっくり休みな」


研一は杏子の声を背中で聞きながら台所を後にした。




「ふぅ、今日は色々あったなぁ」



自室に入ると研一は自分のベッドに倒れ込んだ。



「でも母さんに報告できて良かったかな」



研一は部屋の天井を見ながら呟いた。



それと同時に猛烈な睡魔が襲って来る。




研一は奏の唇の感触を思い出しながら深い眠りの中に落ちていった。









つづく


目覚めよと呼ぶ声あり


作曲 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ



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