第4話 彼女の事情


「パニック障害 ? 」


研一もこの言葉は知っていた。

大勢の他人と一緒にいる事に息苦しさを感じていた彼は、ネットで色々と調べてみた。

その中でこの「パニック障害」と言う言葉を知ったのだ。


「それって、急に不安感や眩暈めまいを感じてパニックになってしまう事だよね ? 」


「あ、いえ。あたしはそんなに重症では無いんですけど」


奏は慌てて両手を振った。


「ん ? 」


奏は右手首につけている時計に目をやった。


「大変です!先輩!」


奏は身を乗り出して来た。


「ど、どうしたの ? 」


「あたし達がここに居られる時間はあと15分しかありません!」


そう言われて研一もスマホを取り出した。

ホントだ。

教室に戻る時間を考えるともうそれくらいしか時間は無い。


「早くお昼ご飯を食べましょう!」


そう言って奏はお弁当箱を取り出すと「いただきます」と手を合わせて猛然もうぜんとお弁当を食べ始めた。


「先輩も食べて下さい」


「あ、ああ」


いきなりお弁当を食べ始めた奏に呆気あっけに取られていた研一もサンドイッチをほおばった。


15分後。

昼食を食べ終えた2人は後片付けをしてフェンスのベニヤ板の前にいた。

昼休みが終わるまであと10数分だ。


「あの、先輩は何か部活ってやってます ? 」


「いや、帰宅部だけど」


それを聞いた奏は安堵あんどの表情を浮かべた。


「でしたら、放課後にまたここでお会いしたいです。ご迷惑でしょうか ? 」


「いや、僕は構わないけど」


パニック障害と言う事を聞いてしまった以上、この子を放ってはおけない。


「それでは部活が始まる前に。人目に付くといけませんから先に来た方からクヌギの樹に移動しましょう」


「うん、了解。だけど」


「何か不都合でも ? 」


奏はちょっと不安げな顔になった。


「いや、昼休みが終わるまであと10分ちょっとだけど。教室には間に合うの ? 」


「なんだ、そんな事ですか。大丈夫です。こう見えてあたし、足は速いんです。それでは」


ペコリと頭を下げた奏は脱兎だっとごとく駆け出した。

その姿はみるみるうちに見えなくなった。


「スゴイな。おっと僕も急がなきゃ」


奏の姿が見えなくなった数分後に研一も全速力で駆け出した。

何か不思議な気分だった。

今日は1人では無かったのに、いつもよりリフレッシュしてるように感じられた。





放課後。


3時ちょっと過ぎに研一はフェンスのベニヤ板の前にいた。

ベニヤ板はずらされていた。

もう、あの子は来てるみたいだ。

研一はゆっくりとクヌギの樹に向かった。

クヌギの樹の下には昼休みの時と同じビニールシートが敷かれていた。

通学鞄つうがくかばんと肩さげカバンと一緒にあの子がいた。

足を崩した女の子座りで両手を後ろについて目を閉じていた。

野鳥の声を聴いているようだ。


雑木林の中は木漏こもれ日が降り注いでいた。

少女のあでやかな髪も木漏れ日で輝いていた。


「昼休みの時はあの髪が踊っているように感じられたんだよな」


研一は、そんな事を考えていた。


しばらくすると奏がゆっくりと目を開けた。


「・・・先輩」


「やあ」


研一は片手を上げた。


「・・・良かった。本当に来てくれた」


「だって約束したじゃないか」


奏はゆっくりと身体を起こした。


「・・・あたし、約束とかはあまり期待し過ぎ無いようにしてるんです」


「どうして ? 」


奏は少し顔を伏せた。


「もし約束がダメになった時、ガッカリしないように」


そう言ってから奏は顔を上げた。


「でも先輩は来てくれました。あたし、本当に嬉しいんです」


奏は笑顔を浮かべた。

研一にはその笑顔が少し悲しそうに見えた。


「さ、先輩も座って下さい」


「うん」


研一は靴を脱いでビニールシートの上に座った。

奏の横で、奏と同じ方向を向いて。


「お邪魔いたします」


「ご丁寧な挨拶、いたみいります」


2人は並んで座った。

研一は何も喋らなかった。

奏も喋らなかった。


木漏れ日が降り注ぐ雑木林は美しかった。

時おり聴こえる野鳥の声も美しく響き渡った。

それは1人の時よりも素晴らしいものに感じられた。


しばらく経ってから奏が口を開いた。


「あたしの家、お母さんが居ないんです」


研一は黙って聞いていた。


「昨年、両親が離婚したんです」


奏はぽつりぽつりと話し続けた。


「小さい頃は両親がギクシャクしてるなんて気づきませんでした」


研一は黙ったまま聞いていた。


「小学校の3年生くらいでしょうか ? 両親の不仲に気付いたのは」


奏は喋り続けた。


「4年生になる頃にはあたしが自分の部屋に行って眠ると、両親が怒鳴り合っている声が聞こえてくるようになりました。あたしはベッドの上で必死に耳をふさいでいました。これは夢だ。あたしは悪い夢を見てるんだ、って」


奏は喋るのを止めた。

彼女の両肩が震えていた。

研一は黙って彼女の手に自分の手を重ねた。


恐らく彼女は自分が封印した記憶を喋ろうとしているのだろう。

自分1人で抱え込んでしまっていては堂々巡りから解き放たれる事は出来ない。


奏は重ねられた研一の手から彼の体温を感じた。

それは自分を応援してくれているのだ、と理解した。

奏は意を決したように言葉を続けた。


「あたし、5年生の時に生理が来たんです。その事を母に告げると、母は別の生き物を見るような目であたしを見ました」


研一は重ねている手に力を込めた。


「母はあたしが同じ女性である事を認識して、それからのあたしを見る目に敵意のようなものが感じられました。今になって考えると、その頃には母の精神はかなり病んでいたのだと思います」


研一は無言のままだった。


「それから母は昼間からお酒を飲むようになりました。父との仲はますます険悪になって行くようでした。夜に家を出て行くようになり外泊するようにもなりました。父が言うには、外に男が」


「もういい!」


研一は叫んだ。


「もう良いんだ。よく話してくれたね。ありがとう」


奏は研一の胸に顔をうずめて大きな声で泣き始めた。

研一は奏の頭に手を乗せた。

そして、小さな子供をあやすようにその頭を優しく撫でた。


「大丈夫。君は何も悪くない。大丈夫だよ」


奏の泣き声が止む事は無かった。


この少女はどれだけの心の痛みに耐えて来たのだろう。

この子の事だから、こんな事を他人に話したのは僕が初めてだろう。

僕がどのような言葉を発しても彼女の心の痛みには遠く及ばない。


それからの研一は黙って奏の頭を撫で続けた。

そんな事くらいしか自分には出来ない。

せめて彼女の心の痛みを共有したい、と願った。





つづく




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