第佰漆拾捌話:永禄四年九月十日

 上杉政虎は闇夜に浮かぶ明かりを見つめていた。ただ一人、供もつけずに何かを見下ろす。その貌に浮かぶは笑みか、それとも――


     ○


「明日は戦だ! たらふく食え!」

「うす!」

 武田陣営では普段よりも多くの食糧を兵士たちに振舞い、明日の行軍への景気づけを行っていた。狙いは横田城、茶臼山では少々遠く緩い手であったが、この一手は確実に上杉の息の根を止めることとなるだろう。

 彼らの補給線、その本道ど真ん中に拠点を得るのだ。茶臼山では漏らしてしまった補給部隊も、横田城で布陣していれば嫌でも網に引っ掛かる。

 さらに言えば、上杉が撤退すると言う選択肢すら、横田城奪取と言う一手が潰してしまうこととなるのだ。これで様子見は終わり。

 両軍、嫌でも衝突することとなろう。

「御屋形様、酌を」

「おう」

 木杯が空になった瞬間を見逃さず、先んじた馬場信房が信玄へ酒を注ぐ。それを一歩出遅れた香坂(春日)虎綱は後ろで顔をしかめていた。ちなみに彼の名がなぜ香坂なのかと言うと、信濃の武家である香坂氏を名乗ることで、少しでも土地の者と馴染み、支配を緩やかに強めて行こうという魂胆があった。

 ゆえに必要なくなった時期には春日と言う名に戻している。有名な武田四天王高坂(香坂)昌信は昌信(しょうしん)が出家名であることもあり、香坂と昌信を同時に名乗っていた時期が重ならぬことから、幻の名であることは余談である。

「明日は二人共、頼むぞ」

「はっ。見事大役、完遂して見せまする」

「必ずや!」

 信房と虎綱は信玄の期待に応えんと声を張る。彼らは明日、陽動のため妻女山を責める手はずとなっていた。攻めると言っても軽く手合わせし、時間を潰すだけ。信玄率いる本隊が横田城を奪い取るまでの時間稼ぎである。

 無論、相手は上杉政虎。下手な役者では即座に看破され、逆にやりたいことを教える羽目になりかねない。だからこその人選である。

 信頼する四天王二人、信玄を除けばこれ以上はない最高の囮であろう。

「明日、本当に今日のような霧がかかるのですか?」

「ちょいと前に小雨が続いただろ? そういう時は続くらしい。地元の奴が十中八九と言っていたからな。まあ、大丈夫だろ。今の俺が一や二を引くとは思えん」

「ふはは、よき覇気ですなぁ」

「だっはっは」

 早朝、彼らは霧に乗じ動き出す。軍を二つに分けて。開戦からずっと不動を貫き続ける上杉軍であるが、横田城を取られたならさすがに動かざるを得ない。その動きが見えた段階で咎めて来ることも十分考えられる。

 そうさせぬための陽動。彼らの手腕、霧の濃さが時間を稼いでくれる。その間に横田城へ奇襲を行い、奪取する。早朝は最も気が緩む時間帯である。それは河越夜戦で北条軍が関東連合軍相手に証明してのけた。

 今回はそこに霧が加わるのだ。

「勝つぞ」

「「はっ!」」

 細工は流々仕上げを御覧じろ、とばかりに信玄は確信する。自分に足りぬものを補ってくれる弟、武田四天王を筆頭とする優秀な家臣団、

「ほれ、若様」

「今、馬場殿が酌をしていたから要らんだろうに」

「おーい、空だぞ太郎」

「……一気に飲み干しやがった」

 それに今川の娘と婚姻を結んだ嫡男、武田義信もいる。祖父譲りの眉毛が主張激しく、父子共にコンプレックスではあるのだが、性格は己と信繁を足して割ったような、丁度いい塩梅だと信繁や家臣らも認める男である。

「武勲をあげろよ、太郎」

 ちなみに幼名も仮名も太郎なのは信玄と同じ。

「励みます」

「俺も今川、北条に倣い奥へ引っ込みたいんだ。越後、上野国方面は俺が攻め、甲斐はぬしに任せる。そのためにも箔を付けろよ、箔をな」

「ご自身が自由に暴れたいだけでしょうに」

「がっはっは! その通り!」

「……まったく」

 武田の先行きは明るい。上杉を打ち破り、信濃の支配を確たるものとしたら、ようやく甲斐武田にとって悲願の海が目前となる。

 春日山を得、日本海貿易の要衝を押さえれば銭も入るだろう。

 豊かな土地である北信濃(なお南は……)、貿易の要衝である春日山、欲しいものは全部、この戦の先にあるのだ。

「……さあ、やるぜ」

 誰にも聞こえぬ声量で、信玄はつぶやく。ここまでは遠間での読み合いに終始した。相手の思考を、腹を読むために揺さぶりもかけた。

 だが、明日でその均衡は崩れる。

 いや、崩すのだ。信玄が自ら。そうやって主導権を奪う。

 龍と言う幻想を、虚像を、この戦で打ち破るのだと、強い覚悟と共に。


     ○


 翌朝、英気を養った武田軍は二手に分かれ、深い霧の中、行軍を開始した。事前に各部隊、地形や地図は頭に叩き込むよう指示を送っている。それでも霧の中の行軍と言うのは予想以上に難しいものであったが。

「……こりゃあ上杉が気付きようもねえな」

「ですね。一寸先すら見えません」

 本隊の信玄と信繁は昨日よりも深まった霧を見て、苦い笑みを浮かべていた。目くらまし程度になれば、と思っていたのだが、この霧深さは想像以上。あまりにも深過ぎてはぐれる部隊も出てくるかもしれない。

 出来れば最大戦力で、風の如く迅速に城を奪い去りたいのだが――

「上杉への情報封鎖は?」

「手抜かりなく。一晩、普段以上に乱破たちの警戒を強めさせました。万が一にも、我々の動きが掴まれていることはないかと」

「……よし」

 油断はない。手抜かりも無い。慎重に、されど大胆に、即断即決で風の如く、火の如く、攻め立てる。山の如く、林の如く佇むならば好きにせよ。

 先んじて、勝利を固めるまで。

「そろそろか。全軍に通達。横田城包囲に備え、広がって鶴翼の陣形を取れ」

「はっ!」

 この霧では通達も一苦労であるが、それでもここまで来たなら後は囲み、油断した横田城を一気に叩くだけ。上杉が横田城へ大軍を詰め込んでいないのは以前から確認済み。必要な情報はすべてこの手にある。

 あとは捌くのみ。

 勝利への一手を――

「霧が薄くなってきましたね」

「ああ。目と鼻の先に横田城があるはずだ」

 川中島と言う盤上へ、打ち込む。


     ○


 盆地の霧が晴れる前に陽動部隊は奇襲を仕掛けるため妻女山の山頂へ向かっていた。尾根伝いの進軍、平地ほど楽な行軍ではないが昨日英気を養ったこともあり士気は高い。充分、相手を揺らがせることが出来ると馬場たちは判断していた。

 だが、

「馬場殿、妙ではありませんか?」

「……ああ」

 途中で彼らは気づく。とうに上杉軍の警戒網に食い込んでいるはずなのに、敵兵が人っ子一人見えていないのだ。もちろん、彼らが尾根伝いの進軍を予想していないと言うこともあろうが、それにしてもここまで近づいて何もなしと言うのは少々気がかりである。見回りの兵とでもかち合いそうなものだが――

「……」

 進むほどに言葉数が減っていく。敵軍への警戒もあるが、それ以上に膨れ上がっていく一つの懸念が口を重くする。ありえない話なのだ。

 昨日組み立てた策である。

 上杉が知る術はない。それを封じるために信繁や自分たちが骨を折ったのだ。内部から漏れたとは考え難い。考えたくない。

 だから、それは絶対にありえない。

 ありえるはずが――

「……そん、な」

「ば、馬鹿な。ありえん!」

 ないこと、起きていた。

 山頂は、昨日までは確実に上杉軍が陣を敷いていた妻女山の頂上には、軍勢どころか人影すら消え去っていた。

 火や旗などはそのままに、人だけが消えている。

「「御屋形様ァ!」」

 一足先に彼らは知る。

 龍の戦を。


     ○


「……え?」

 霧が薄らいでゆく。近くには横田城があるはず。その前を遮るものなど何もない。そのはずなのに、眼前には黒山の、何かがあった。

 徐々に、信玄の、信繁の、飯富や工藤の顔が、歪んでいく。

 ありえない。ありえるわけがない。

 それでも――

「ぶはっ、こうして近くで顔を合わせるのは幾年ぶりか! ようやく会えたのォ。武田信玄よ! 我が名は上杉弾正少弼、関東管領である!」

 現実に、彼らがいた。

「武士と武士が間近で出会うたのだ! やることは一つしかあるまい! 戦じゃ、戦をしよう! 存分に、心行くまで、血みどろのなァ!」

 上杉政虎率いる総勢一万三千の軍勢が全て、霧の向こう側に、横田城の手前に布陣していた。まるで、其処に武田軍が来ることを知っていたかのように。

 武田信玄の顔が――ぐにゃりと歪む。

 昨日得た確信にひびが入る。正しい道を歩んでいるという確信。素晴らしい家臣に囲まれ盤石の城と成った武田家。自分は強くなった。あの頃よりもずっと、犠牲と共に、敗北と共に、駆け上がって来た。

 天を舞う龍にもその爪牙は届き得るはずだった。

 それなのに――

「兄上!」

「……あ、ああ」

「不意の遭遇です! 彼らも撤退するつもりだったのでしょう。それがたまたま、我らの動きと重なっただけ。それだけの話です!」

 違う、と信繁の言葉を信玄の感性が否定する。それは気安めでしかない。あの男は自分たちの動きを知っていた。だからこそこうして衝突することとなった。偶然なのではない。必然である。なのに、その理由がわからない。

「ことここに至れば戦うしかありません! 馬場殿らも気づいている頃でしょう。彼らが連動すれば、敵軍の側面を突くことが出来ます。まだ我らは負けていない。ここで堪えたならば勝機はあるのです! 決断を! 御屋形様!」

 見えていたはずの盤面が消える。勝っていたはずの盤面が揺らぐ。

 同じ地平にいたはずの龍が、天で嗤う。

「俺を、見下ろすな。景虎ァ!」

 軍配を振りかざし、

「陣形の利、我らにあり! 包み、潰せェ!」

 朝靄揺らぐ世界を晴らすかのような苛烈なる怒号により、全軍に命令を下す。不意の遭遇に慄いていた武田軍であったが、御屋形様の言葉が迷いを一瞬で晴らした。敬愛する御屋形様の命が下ったのだ。迷わず遂行するのみ。

 刹那で士気が跳ね上がる。

 同時に、

「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり。何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし」

 上杉政虎の、凛とした言葉が染み渡る。

「天運、我にあり! 全軍、突撃ィ!」

 軍神の言葉が上杉軍の背を押す。圧倒的な力で、神の啓示が如くその言葉は兵を縛り、ただ狂ったように命令を遂行する獣と化す。

 とうとう始まるのだ。

 戦国史にも類を見ない『損耗率』を誇る血戦が。第四次川中島の戦い、その舞台である八幡原にて龍虎がまみえる。

 十年近く向き合い続けた互いの爪牙が――嫌でも食い込む距離で。


 永禄四年、九月十日のことであった。

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