第佰漆拾漆話:虎は正道を征く

 情勢不動の戦場。先に動いたのは有利な位置に陣取っていた武田であった。あえて武田信玄は茶臼山の陣を捨て、海津城の方へ移動したのだ。

 その理由は――

「あの男の情報が欲しい」

「それだけですか?」

「ああ」

 上杉政虎が何を求めているか、何のために妻女山へ陣を敷き、沈黙を保っているのかを知るためである。我慢比べに敗れたかのように見えるが、信玄はむしろ有利を与えられたままの不気味な状況を嫌ったのだ。

「茶臼山での陣が効いていたのなら、ここが好機とばかりに攻め寄せて来るだろ。それでも動かないのであれば、茶臼山で陣取っていたこと以外の理由がある、ってことになる。相手の狙いを引き出すため、ちょこまか動いて相手をつつく」

「なるほど」

「これぞ啄木鳥戦法ってな」

「……冗談は眉毛だけにしてください」

「おいこら」

 信玄と信繁が仲良く駄弁りながら海津城を目指す。

 通説、と言うか軍記物でよくある啄木鳥戦法は妻女山に陣を敷く政虎に対し、軍を二つに分けて攻撃を仕掛け、彼らが後退したところをもう一つの軍が攻撃する、と言う『軍師』山本勘助が編み出した戦法である。が、これはまあこの物語と同じ、創作の話であり、上杉軍の車懸りの陣同様、現実ではほぼありえないとされている。

 そもそも戦国時代における『軍師』自体が創作上の人物であることが多く、実は史実の上では無名であったり、存在しない人物であることが多い。

 件の山本勘助も最近まで実在を疑われていたが、存在自体はしていたようで武田軍の末席に山本『菅助』と言う男はいたという資料が発見されている。

 が、当然軍師と言う役職は存在せず、

「山本殿、何故御屋形様は海津城へ入られるのでしょうか?」

「ううむ。上の考えることはわからん」

 槍を携え、戦列の一員としてえっちらおっちら歩いていたとさ。


     ○


 武田信玄の海津城入り。敵味方、特に上杉方はこう思った。これで戦局が動くぞ、と。妻女山の位置が海津城を見下ろす形で、武田の複合城塞群に食い込んだ場所であると言うことは、海津城攻めを想定した陣地であると言うこと。

 驕りか、慢心か、武田が海津城での戦いを選んだ以上、上杉が動かぬ理由はない。誰もが動くと思った。武田の動員数は海津城の二千と合わせて一万八千とかなりのもので、戦力の上では上杉軍が劣る。

 それでもやるなら今、誰もがそう思った。

 だが、

「待機」

「何故ですか!?」

 柿崎景家が叫び出してしまうほどに、政虎は意図が不明な不動を指示する。家臣の問いに答えることなく、彼はただ待機と口にし、動くなと厳命する。

 せめて理由さえ知っていれば心構えも出来ようが、政虎はそれを口にすることはなく、家臣らの不安と疑心が募る結果となった。

「甘粕殿、御実城様は何を考えておられるのですか?」

「今は……私にもわかりませぬ」

 甘粕景持の側近として男装し戦働きをする近衛絶であったが、彼女も他の者同様政虎の思考が読めずに困惑していた。

 ちなみに彼女は関東遠征の最初こそ理想と現実の差に苦しんでいたが、戦働き自体は政虎が認めたとあって男と同等、それ以上の働きを見せていた。特に乱戦での立ち回りには目を見張るものがあり、刀の間合いは滅法強い。

 上官である甘粕が剣術に関しては教えを乞うほどである。

 まあ、今はそれらを振るうことすら出来ていないのだが。

「甘粕殿、御実城様がお呼びです」

「自分が、ですか?」

「はい」

 そんな中、政虎は甘粕を呼びつける。あの日以来、彼が昔のように甘粕を傍に置き、可愛がると言うことはなくなっていた。特別扱いもなく、彼から声がかかること自体なかったことである。だからこそ、心臓が弾む。

 今の上杉政虎が以前のように戯れで呼びつけることなど無いから。

「仕事だ、持之介」

「……はい」

 そして彼は、多くの重臣に先駆けて上杉政虎の策を知る。

 大きな役割を担う代わりに――


     ○


 海津城に入って数日、上杉軍に動きなしと見るや否や、武田信玄は次なる手を考えていた。海津城にいてもいなくても政虎は動かない。彼の狙いは武田本隊の位置ではなく、もっと別の何かであるのだろう。

 中々手の内を晒してくれない政虎に信玄は次第に自らの優勢を疑い始める。主導権を握っていたつもりが、握らされていただけ。

 全て相手の思惑通りであったのではないか、と。

「次は横田城を抑えてみるか。いや、それだと茶臼山と変わらない。何だ、何が狙いなんだ? あの男は、何を考えている?」

 龍が大きく見え始める。それが実際の大きさなのか、それとも自分が大きく見ているだけなのか、それすら判断が出来ない。

 ただ、ただ、今見えている地平を疑い始め――

「失礼します、御屋形様」

「おい、うんこ中だぞ」

 厠で考え事をしている最中、弟の信繁が入り込んでくる。信玄の厠時間は不可侵、と言うのは武田家臣なら誰もが知るところ。

 それを侵してでも、彼はここにいる。

「存じておりますよ。しかし、長過ぎたので表の者たちに様子を見て欲しい、と頼まれたのです。その様子では、時間が経っていることにも気づいていないみたいですが。随分と顔色が優れないようですね」

「……別に、大したことはない」

「考え過ぎは体に毒ですよ」

「相手はあの長尾景虎だ。考え過ぎるに越したことはない。ぬしとて知っているだろう。あの男に俺たちは翻弄され続けたんだからな」

「私は御屋形様が過去三たび、土を付けられたとは思っておりませんがね」

「……それは」

「それどころか戦略的に我らは常に有利を築き上げて参りました。此度の戦など所詮は悪あがき、すでに信濃の支配は我らが得たも同然です。例え、ここで敗れようとも、そうなるよう根回しは済んでいます。そうでしょう?」

「……まあ、その通りでは、ある」

 信繁の落ち着いた声色に、徐々に落ち着きを取り戻し始める信玄。

「敵は確かに巨大です。ですが、兄上もまた大きくなりました。あの頃のように驕り高ぶることなく、ようやくここまで来たのです」

「……」

「揺らがず邁進いたしましょう。兄上の、武田の、覇道を」

「……そう、だな」

 大きく息を吸って、吐く。張りつめていた何かが緩む。信繁の言う通り、敵は優秀であるが自分は戦術的には後れを取っても、戦略面では勝ち続けてきたのだ。関東管領となって多少揺らぎは見せたが、北条を沈めきれなかった時点でいずれその威光も薄れよう。何を恐れることがある。

 己は武田信玄、甲斐の虎である。

「表で皆が待っています。兄上が集めた、珠玉の人材が」

 厠を出ると、そこには香坂(春日)、馬場、工藤、飯富の武田四天王や主だった諸将が軒を連ね、信玄の帰還を待ち望んでいた。

 これ以上奮い立つ光景があろうか。

「御屋形様」

「……おう」

 常に自らを支え、正しい方向へ導いてくれる弟の声が背を押す。

「デカいうんこが出た」

「それは僥倖」

「……勝つぞ」

「はっ!」

 越後の人材も素晴らしい。だが、甲斐はその点で絶対に負けない。貧しい土地に生まれ、幾たびの飢饉を乗り越え、戦で名をあげた者たちである。

 恐れる者は何もない。

 例え相手が龍であろうと、その首叩き落としてくれる。

 正しい道が見えた。進むべき明日は彼らと共に在る。

 もう、揺らぐことはない。

 武田信玄は真っ直ぐと見据える。勝利への道を。最善を、征く。


     ○


 明朝。

「……相変わらずこの辺は霧がかるな」

「ええ。季節柄仕方ないですが」

「季節柄……上杉に動きは?」

 はたと信玄は引っ掛かりを覚えた。時を待つのは、雪ではなくこの霧を待っていたのではないか、と。

「特にありません」

 しかし、それを信繁の言葉がかき消す。

「そうか。なら、違うか」

 深い霧に包まれた川中島の地。この季節は時折霧がかることがある。もしかしてこれを待っていたのでは、と思ったが現在動きが無いのであれば、それも外れであるのだろう。ますますわからなくなってくるが――

「……待てよ。この霧、使えるな」

「地元の者に聞いてきましょうか? 霧を予測できるかどうかを」

「ああ。頼む。上手くいけば、上杉を翻弄出来るかもしれん」

「よい考えかと。揺さぶりましょう。穴倉でひきこもる蛇めを」

「ガハハ、言うなぁ。まあ、天地の差はあれど似たようなものか。気取って山登りしたが、下りるに下りられなくなった蛇に引導を渡してやる」

 武田信玄は笑みを深めた。

 この揺さぶりを受けてなお、それでもまだ不動を貫けるか、と。

 その笑みは、眼は、語る。

 妻女山の頂点に、天に座す、男へ向けて――


 永禄四年、九月九日のことであった。

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