第佰伍拾漆話:何処にでもある悲劇
永禄二年、八月末。長尾景虎は越後国へ帰国した。
前回の上洛とは比べ物にならぬほどの土産を抱え、彼らは本国へ戻って来たのだ。当然、大勢が出迎えに並ぶ。その中を景虎たちは威風堂々と歩む。
さながら大きな戦に勝利したかのような光景であろう。
城下も、そして春日山城内に至っても賛辞の声が飛び交う。すでに幕府から破格の権威を授かったことも届いている。なればこの賑わいも当然のこと。
景虎は自国の喜びように笑う。
他国は今、この騒ぎではないだろう。特に武田、それ以上に北条。山を動かす準備は整った。元々不安定な東国のパワーバランスを引っ繰り返す。
今回の上洛で得たモノは、そういうものであったのだ。
ゆえに景虎も上機嫌である。彼らの顔が歪んでいる、その想像だけでいくらでも飯を掻っ込める、と思っていたから。
「おつかれさまでございます、御実城様」
上機嫌であったのだ。
「おう。留守居ご苦労。何か変わりはあったか?」
この問いを発するまでは。
「……そ、それは」
「……?」
景虎としては世間話の延長線。特に何もなかった、と返されると思って投げかけた言葉であった。そもそも、国を揺るがせるような事態であれば越後に戻る前に届いている。何もない、あるわけがない。だから、気楽に投げたのだが。
「国政は何も変わりありません」
問われた者の代わりに、無機質な声が景虎の耳朶を打つ。そこには金津義旧の後継である蔵田五郎左衛門がいた。
「国政、は?」
「はい」
「はい、じゃない。それ以外には何かあったのか?」
「我々にとっては大したことではありません」
「持って回った言い方をしよって。その我々には、俺は入っておらんのか?」
「はい」
「……俺、だけ?」
「はい。御察しの通りです」
景虎の顔が、見る見ると青く、白く、変化していく。
「……梅は、何処におる?」
「これより皆様の無事を祝し、宴席がございます。些事はその後に」
「梅は何処だ⁉」
全てを吹き飛ばすかのような怒気を浴びながら、それでも蔵田は顔色一つ変えない。わかっているのだ、それが自分に向けられたものでないことが。
もっと言えば、他に向けて良いものでも、ない。
「……林泉寺の離れに」
景虎は何も言わずに背中を向ける。
城の者は今の景虎、その貌を見ることはなかった。
「御実城様。節目を祝う宴席もまた、政でございます」
だが、彼と連なり、共に上洛へ赴いた者たちは背後にいたがために、それを見た。見てしまった。人のものとは思えぬ形相を。
それなのにこの男は、直江実綱は火に油を注ぐ。
「退け」
「ご命令とあらば」
実綱はあっさりと道を開ける。そのまま突き進む景虎の背を見て、実綱の顔は喜色に歪む。誰が見てもそれは、狂気極まる顔つきであった。
「甘粕殿」
「……!」
「よ、様子を見て参ります!」
柿崎、斎藤の二人が甘粕景持に様子を窺ってくるよう頼む。上洛組には詳しい状況はわからない。だが、千葉梅に何かがあった、それだけは伝わった。
彼女が景虎にとってどういう存在なのかはわからずとも、彼が彼女を特別扱いしていることは家臣であれば誰もが知っている話。
そこに何かあったのであれば――
○
景虎は林泉寺の山門までやって来た。様々な考えが頭を駆け巡る。考え過ぎだ、杞憂だ、蔵田が無表情で冗談を言っただけ、そんなことばかり考える。
だが、山門の前に待ち構えていた天室光育の後釜、今の住持の表情を見て、
「……」
「……疱瘡です」
「……ありえん。弥太郎は、患ってからかなりの時が――」
「はい。弥太郎であれば、拙僧らも移っておるでしょう。しかし、患ったのは千葉様のみ。おそらくは、街で拾われたのかと」
「ありえん!」
全てを悟った。全てを悟りながら、認められなかった。
この時代、世の中には病が溢れている。百姓も、武士も、公家も、帝すら、病とは無関係ではいられない。誰もが平等に、そうなる可能性はある。
景虎ももちろん、それは知っていた。
父も、兄も病死である。覚明も病死であった。三好長慶ほどの男でもそうなる。
そんなことわかっていた。
「梅!」
「……⁉」
離れの障子越しに、景虎は声をかける。人の気配がする。障子一枚隔てたところに彼女はいるのだ。開いて、様子を見る。
ただそれだけ。それだけで、皆が冗談を言っていることがわかる。
きっと驚かせようとしているのだ、景虎はそう思った。
「俺だ。帰ったぞ。案ずるな、土産もある。しかも二つもだぞ。先に琵琶を渡し、拗ねたぬしに名人がこさえた弓を――」
「……お帰り、ください」
「冗談は要らぬぞ。長旅で疲れておるのだ。充分驚いた、だから――」
「もう、御実城様に、お見せできる顔では、ありません」
「……嘘では、ないのか?」
「……はい」
体調が芳しくないのだろう。声がかすれている。だが、そんなもの聞かずともわかる。声に涙が混じっていたから。あの時の叫びよりも、悲痛な声色であったから。
「……疱瘡か?」
「はい」
「見られたくないか?」
「……はい」
「……そう、か」
景虎は崩れ落ちる。あれだけ精強で、一度として敵を前に膝を屈したことのない男が、弱々しく地に膝を付け、頭を垂れた。
全て上手くいっていたのだ。上洛へ、京へ赴くまでは。
覚明に相談し、積年の何かが解け、怒りが消えた。そのおかげで人としての道が拓けた気がしたのだ。人間一人、何を背負うことがある。
少しに幸せぐらい、誰に許しを得る必要がある。
それは手の中にあった。あとは自分が握り締めるだけで良かった。
そっと握り締め、情勢が落ち着いたら――そう思っていた。
それなのに――
「とら様。申し訳ございません。わたしの、せいで、小島様が」
僧に連れられてきた疱瘡を患い全盲となった少年、弥太郎は景虎に向けて頭を下げる。自らのせいだと言わんばかりに、地に強く、強く頭を打ち付けて。
「……とら」
障子越しから梅の声がする。諭すような声色で。
涙声には聞こえない。女は強いな、と景虎は顔を歪める。
「……わかっておる。案ずるな。そこまで、阿呆ではない」
「……ありがとう」
何も言わずに、景虎は弥太郎を抱きしめる。ぬしのせいではない。流行り病なのだ、何処からきて、何処へ行くかもわからない。
人が出入りする限り、誰の下にも忍び寄るもの。
だから、誰かのせいではないのだ、と。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「……」
ただ、抱きしめる。
彼女が弱音を吐かぬのならば、己もまた吐かぬ。
少なくとも、自責の念で押し潰されそうな童の前では。
「……」
追いかけてきた甘粕景持は初めて見た。あれほどまでに弱り切った長尾景虎の姿を。知ったばかりの形相は黒田の時を彷彿とさせたが、あれは怒りを力に変え、結果として彼の飛躍の一助にすらなった。だが、今は違う。
その怒りの向け先が、何処にも、誰にもない。
ゆえにただ、それは身を侵すだけ。体を、心を蝕み、力を削ぐ。
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