第佰伍拾捌話:一人か二人か

 越後国内の諸侍が景虎帰還の報せを聞き、帰還予定に合わせて春日山に集結していた。無事越後に戻ってきた皆をねぎらうため、と言う建前でわらわらと権力者に群がる者たち。景虎は笑顔を浮かべながら、ただ事務的に挨拶をかわす。

 少し前までは面倒だと思っていた行事も、今は考える暇をなくしてくれているため、幾分気がまぎれるようであった。

 顔と名前が一致せぬ者たち。されど家名を聞けば自然と名前や受領名が出てくるのだから、哀しいほどに国主が板についている。

 挨拶、挨拶、挨拶。

 次の瞬間には忘れてしまいそうな定型文に塗れた会話の数々。

「おめでとうございます、御実城様!」

「ああ。ありがとう」

 この会話に、この集まりに、何の意味があると言うのか。

 光に群がる虫の如く、彼らは集まって口々に何かを述べる。何も頭に入らない。何一つ、気持ちが湧きたつことも無い。

 ずっと沈んだまま。顔だけが笑っている。

「甘粕殿、長尾殿はどうされたのですか?」

「……い、いえ、いつも通りではありませんか?」

「そうでしょうか?」

 近衛絶が遠巻きに景虎を眺め、首を傾げる。彼女は今日、彼の身に何が起きたのかを知らない。それでも聡い者は気づく。

 彼にいつもの覇気がないことを。

 鮮烈な、溌溂とした、凛とした気配が、失われていた。

「……」

 その主を眺め、一人全てを理解しながらもほくそ笑む男がいた。あからさまな、露骨な愉悦の表情。甘粕は横目でそれを見て、顔を歪めた。

 こういう場ではあまり飲まない男が、随分酒量が増えている。それだけ浮かれているのだろう。その事実に、甘粕景持は腹が立った。

 だから――


     ○


 久方ぶりに飲み過ぎ熱を持った頭を冷ますため、夜風に当たる直江実綱。今日は実によい日である。いずれどうにかせねば、と思っていた存在が勝手に消えてくれたのだ。己が正しく導かねばと思っていた矢先に、この出来事である。

 まさに天命。神が言っている。

 唯一無二たれ、と。

 池の水面に浮かぶ己が顔を見て、実綱は笑った。改めて見ると随分締まりのない顔をしている。まあ、それも仕方なきこと。

 ようやく、ようやく、望みが叶う時が来たのだから。

「嬉しそうですね、直江殿」

「おや、甘粕殿ですか。これは恥ずかしいところを見られてしまいましたね」

「……御実城様が消沈されているのに、何故御前は笑っておられるのですか!?」

 甘粕景持の咎めるような視線を実綱は鼻で嗤う。

「消沈? 何故御実城様が消沈されるのですか?」

「っ、知れたことを!」

「理解出来ませんね。私に難癖をつけている暇があるのなら、国衆の方々に酌の一つでもしてきたらどうですか? 後ろ盾のない甘粕家には必要なことでしょう?」

 景持は怒りに震える。この男は後ろでどんちゃん騒ぎをしている者たちとは違う。全部わかっていて、それを喜んでいるのだ。

 長尾景虎が傷ついているのに、この男は笑っている。

「文殿を奪い、梅殿を笑い、御前は何を考えているのですか!」

「……ぷ、あはは、くく、それこそ知れたこと。全ては御実城様のため。天翔ける龍に番など不要。並び立つ者などあってはならない。私の考えは正しかった。まさか、くく、天までが味方してくれるとは。聞こえませんか、甘粕殿」

 実綱は歪んだ笑みを景持に向ける。

「龍と成れ、天がそう言っているのですよォ」

「……狂っている」

 直江実綱は常に景虎の側に立ち、懐刀として表裏を駆け抜けてきた男である。時折行き過ぎた行動もあるが、娘の件も含めて全ては景虎のための行動、そう景持も思っていたのだ。だが、今改めて知る。

 この男はただ、己が理想を景虎に押し付けているだけ。

 彼の幸せなど微塵も興味がない。長尾、直江家の存続も、国の行く末も、全てどうでもいい。ただ理想の、『長尾景虎』を望んでいるだけであったのだ。

 だから娘に、跡継ぎにも頓着がない。容易に切り捨てられる。

「直江殿も、御実城様の後塵を排すと?」

「当然。私は天翔ける後姿を見られたなら、それで本望ですので」

「……そうですか」

 きっと、生涯この男とは噛み合わない。景持は確信に至った。実綱を景虎の傍に置かせてはならない。この男は、景虎の不幸を望んでいる。

 孤高たれ、孤塁たれ。

 その願いがどれだけ彼を傷つけることか。

 問答は無意味、景持は彼に背を向ける。

「どれだけ嫌われても、どれだけ恨まれても、御実城様は私を切り捨てられない。私の歪みを知るがゆえに。わかりますか、青二才」

「……家老は、直江殿だけではない」

「絶対に裏切らぬ家臣は、私だけですよ」

「俺もそうだ!」

「さて、どうでしょうかね。正常な人間は、すぐに揺らぎますから。何が起きるかわからぬ乱世。妻子を持ち、家を背負い、果たしてどれだけの者が最後まで主君に忠義を尽くせるか。全部捨ててでも、仕えられるか」

 自分は出来る。否、やって見せた。

 文を捨てた。彼の価値観では景虎のために。他の子も、直江も、この男は平気で捨てる。捨てられる。だから、景虎は切り捨てられない。

 この時代に限らず、絶対的な関係性などほとんどないから。

 それが例え、歪んだものであっても。

「俺は俺のやり方で、御実城様に尽くしますよ」

 その背中を見て、実綱は少し不愉快な気分になった。

「……不敬」

 あの背からありありと伝わってくる。忠誠と言う名の野心が。景虎に追いつき、並ばんとする賤しき心が、透けて見える。

 凡俗が何を驕り高ぶる。実綱は鼻で笑う。折角いい気分であったのに台無しだ、と思う。が、次の瞬間には青二才の戯言など脳裏の隅に押しやり、天を見上げて悦に浸る。ようやく完成するのだ。あの日見た、人成らざる者が。

『どうだ、神五郎。俺に似て凛々しいだろう!』

『私似ですよ』

『ぶはは、うるせえ』

『……ふは』

 一目ぼれだった。理屈はない。赤子を見て、触れて、知った。

 この子は天に座す器である、と。

 あの日の予感が、ようやく確信となる。

 邪魔者は一つ取り除いた。あと一つ、腐り落ちてくれたなら、それでいい。


     ○


 どれだけ飲んでも酒の味がしなかった。何を食っても泥のような食感しかなかった。吐き出しそうだった。苦しかった。辛かった。

 だから、気づけば――

「……」

 自分にとって心の故郷、林泉寺の境内にいた。離れの近くに座り、万が一にも彼女を見つめぬため、離れには背を向ける。

 そして、ちびちびと瓢箪に入れた酒を飲む。

 時折せき込む音が聞こえる。

「……」

 その度に、声をかけたくなるのをぐっとこらえ、ただ背中に意識を向け続ける。相変わらず酒の味がしない。無味無臭、水と変わらない。

 苦しいのだろう。疱瘡、天然痘は非常に致死率の高い疫病である。現代では対処法も確立され、人類が完全勝利した病の一つであるが、この時代では世界のどこにも対処法は存在せず、ただ祈るしか出来ない病であった。

 発熱、頭痛、倦怠感、死因はウィルス血症、ウィルスが血流に侵入し全身に回った状態となること。加えて合併症にいくつかの病を併発する可能性があり、これだけ咳き込んでいると言うことは、もしかすると肺炎も患っているかもしれない。

 何も出来ぬ無力を、景虎は噛み締める。

 気づけば、瓢箪は空になっていた。何度も飲む動作をして、空になったことを思い出し、またすぐに忘れ、飲もうとする。

 不毛な時間である。何の意味もない。

「……とら?」

 声がした。昼間よりもさらに弱々しい、声が。

「……眠れんのだ。邪魔はせん。ただ、ここにおらせてくれ」

「……もう秋。外は、寒い」

「何も感じん。俺は、平気だ」

「帰って」

「嫌だ」

 何の力にもなれない。救うことも、助け出すことも、慰めの言葉すら、出てこない。敵が力でどうにかなる相手ならいくらでも戦おう。北条、武田、今川、全部まとめて相手となっても構わない。それで救えるのなら喜んで戦い、絶対に勝つ。

 だけど、病には、目に見えぬ者が相手では、何も――

「私はもう、ごほ、駄目、だから。だから――」

 帰って。その言葉が続く前に、

「ぬしは俺の人質だぞ!」

 景虎は耐え切れず、障子を力ずくで開き、離れの中に入った。

 そこには――

「いや、見ない、で」

 変わり果てた千葉梅の姿があった。美しかった顔にはあばたが無数に広がり、往時の輝きを損ねていた。腕や足にも、同様の症状が見られる。

 これから生存出来るのであれば、水疱が黒ずみ、黒いかさぶたとなり、快方に向かうのだが、例え生き延びたとしても、痕が残る。

 弥太郎も眼の周りは生涯消えぬ痕があった。生き延びても、ああなる。

 美しさが彼女の武器であった。それがあるから、彼女は名門に嫁ぐことが出来た。後家となった後も越後に来ることが出来た。景虎と再会することが出来た。

 だから彼女は――

「ふは、何だ。出し惜しみするゆえ、どれほどのものかと思えば大したことはない。入るぞ。と言うか、もう入っておるか」

 それなのに景虎は無理やり入り込んできた。こんな姿、景虎には、景虎にだけは絶対見られたくなかったのに。

「……移るから」

「構わん。俺に移るのであれば、ぶはは、大した病だ。褒めて遣わす」

 それなのに景虎は、あろうことか平然と彼女を抱きしめた。

「生き延びよ。その後、落ち着いたら祝言をあげるぞ。盛大にの」

「……馬鹿、じゃないの」

「本気だ」

「私は、嫌」

「先ほども言ったであろうが、ぬしは俺の人質だ。悪いが、立場を使わせてもらう。ぬしが望む望まぬにかかわらず、俺が娶る。今、そう決めた」

「同情は、嫌」

「初めて会った時から、そうなったらよいな、とは思っていた。ありえぬから、口には出せなかったがの」

「もう、前の、私じゃない」

「変わらぬよ。俺はぬしの在り様に、惚れたのだ。結局、口では何を言おうと武家に縛られた俺には、ぬしが眩しくての。だから、頼む」

 景虎は梅にそっと口づけをする。

「俺と共に、生きてくれ」

 俺を一人にしないでくれ、梅には彼の言葉がそう聞こえた。

「移る、のに」

「俺は移らん。俺様を誰と心得る」

「本当に、馬鹿」

「ぶはは、昔から変わらぬのだ、俺もな」

 そしてまた、口づけをかわす。病など、捻り潰して見せるとばかりに。

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