第佰肆拾玖話:覚明、再び

 長尾景虎は諸々のやるべきことを直江、本庄らに放り投げ、自身はお忍びで春日山を離れ、越後のとある寺院へ訪れていた。長尾家の菩提寺である林泉寺と比べるとかなり小さな、言い方を悪くすると寂れて見える寺院である。

 そこに、

「よく来られた、御実城様」

「ぶは、老けたのぉ」

「よく言われる」

 かつて旅を共にした僧、覚明の姿があった。ここの住持となってから覚明が春日山へ来ることも少なくなり、景虎も戦以外では春日山から出ることはなく、自然と会える回数も減り、気づけば疎遠となっていた。

 こうして顔を突き合わせるのは一体何年ぶりであろうか。

「奥で話そう」

「奥と言うほど奥行きのある寺には見えんがな」

「それを言われると辛い」

 景虎は少し驚いていた。天室光育は出会った頃から老人であったし、この前会った時も多少老けたか、ぐらいの気分であったが、覚明に関しては久しく会っていなかった分を差し引いても、かなり記憶と齟齬があった。

 老いた。枯れた。小さくなった。

 昔は隣に立っていると巌のように感じたのに、今は枯れ木同然。

 そんな男に景虎は会いに来た。

 無性に会いたくなったから。風化しかけた自分の原点を今一度思い出すために。


     ○


「粗茶ですが」

「うむ、む、本当に粗末な茶葉だな、おい。俺は守護代行だぞ」

「場末の寺院に無茶を言うな。井戸水でないだけ感謝して欲しいものだ」

 元々住持が不在となって久しく、ほぼ廃寺となっていたところを永平寺などの寺院で修業を終えた覚明が住持を買って出ただけあり、外見も寂れていたが中身も相当に寂れている。障子もきっちり破れている辺り、銭の無さが窺えよう。

「ぬしが言えば春日山にどでかい寺院を造ってやるぞ」

「要らぬよ。今の私にはここがお似合いだ」

「こんなとこにおるから枯れるのだ」

「枯れたからここにいる、だ」

 景虎は頑固な覚明の様子に早速不機嫌な顔をする。今回の来訪、足元の確認ともう一つ、覚明を春日山に引っ張り込む、と言う打算もあった。彼の血筋とか、経歴とかも今後を見据えると重要であるし、国主の傍に置いておく理由は充分。

 その上で自分を理解してくれる相手なのだ。

 文句のつけようがない。国主としても、景虎個人としても。

 それなのにあっさり断られたのだから不機嫌にもなろう。

(さては覚明め。しばらくご無沙汰であったから不貞腐れておるな。ふん、ぬしが言えばジジイの跡目を継がせてやることも出来たし、いつだって寺院の一つや二つ建造してやったと言うのに。そもそもぬしが俺に何も言わず春日山を離れたのが間違いなのであって、不貞腐れても困るのだがのぉ。まったく)

 そんなことを考えこむ景虎の様子を見て、覚明は微笑むながら茶をすする。乾いた味がする、寂れた味がする、今はそれが心地よい。

 潤いに満ち、香しき茶は、きっともう飲めないから。

「まあ、ぬしの転籍に関しては後だ」

「せんと言うとるだろうに」

「ぶはは、まあまあ。で、だ、今日ここに来たのは他でもない。ちと俺の話を聞いてもらいたかったのだ」

「政ならば何もわからんぞ」

「そんな話を坊主にするかよ。俺は操る側だぞ」

「ふふ、だから善光寺からのけものにされるのだ」

「うるせえ」

 ちゃっかり情報を仕入れている辺り、やはり寺院のネットワークは侮れない。この時代、最も流動している組織が寺であり、旅の僧なのだ。場末であっても最新情報を仕入れることなど容易。越中の一向宗も含め、そこは本当に厄介極まる。

「まあ、あれだ。俺も反省しておるのだが――」

 そこから景虎はぽつぽつと語り始めた。至極個人的な話を、彼らしくない歯切れの悪い語り口で。それを覚明は静かに、一言一句聞き逃さずに胸に留める。

 ここに彼が来た時に思った通りであった。

 彼は狭間で揺れていたのだ。

 国主としての長尾景虎と個人としての長尾虎千代の間で。

 自分でも知らぬ内に。

 貌を見れば迷いが窺える。

(懐かしいな。成長したと思ったが、こういう時はあの頃のままだ。武家の子であることと、多くの夢を抱えたただの子であることの狭間で揺れていた。今は国主として、武家の頭領としての己と、そして――)

 長尾虎千代は強いが繊細な面があった。それを虚勢で、虚飾で誤魔化していただけ。麒麟児として君臨しているようで、その実すべてを諦めていた。

 今もそう。言葉の端々から本当の望みが、願いが伝わってきているのに、それを国主としての、長尾景虎があるべき姿と自らに定めたそれと相反し、揺れている。

 まあ、国主としての自分と定めた自分にもずれが生まれているようだが。

 どちらにせよ――

(私のせい、なのだろうな)

 諦め、いつかは武家の四男としての定めを果たす。そんな彼に別の道を示し、そそのかしたのは他ならぬ自分、覚明と言う僧侶である。

 ここまで駆け上がってきたのは彼の才覚で、彼の持つ運でもある。だが、駆け上がり、国と言う巨大な群れを背負い、いつしか成っていたのだ。

「――かつて、俺が利用しようとしたものに、いつの間にか俺が飲み込まれていたのかもしれん。ぬしから見てどうだ、俺は、長尾景虎はどう映る?」

 国主、長尾景虎に。

 千葉梅の件だけではない。直江文の時も武士の世界を無視すれば、いくらでも救うことが出来た。だが、武家の当たり前がそうさせなかった。武家の当たり前に反し、無用に国を揺らがせることを嫌った。そのために彼女が犠牲になることも飲んだ。誰のためにずっとそばにいてくれたのか、理解しながらも。

 武家の頭領として、武家の世界を守る道を選んだ。

「似て来ておるよ」

「誰に?」

「私は光育殿ほど面識があるわけではない。けれど、今のそなたを見て御父上を思い出した。それだけではない。公方様もそう、私が見てきた多くの家長、背負う者たちと同じ眼をしておる。あくまで私の見立てでしかないが」

 景虎は静かに掌で顔を覆う。正しさと、様々な想いの間で揺らぎながら。国主か、自らが定めた道か、長尾景虎が抱いた夢想か――

 どう成るべきかで揺れている。

「俺は、変わったか?」

「変わらぬ者などいない。誰しもが、変わる」

「……俺は変わらん。あの時、誓ったのだ。俺は全てを利用してでも、国も、民も、武士も、何でも使って、必ず全てをぶち壊すと決めた」

「何がために?」

「ぶは、それをぬしが言うかよ。知れたこと、気に喰わぬからだ。どいつもこいつも脳無し共がふんぞり返って、好き放題やっておる。堕落しておる。民に清貧を説きながら、裏では酒池肉林を堪能しておる。許せるか、その矛盾を!」

 昔から正しいことが好きな少年だった。正しくないことが、理屈に当てはまらぬことが、道理を伴わぬことが許せぬ性質であった。

 そこに自分たちは付け込んだのだ。

 嫌らしく、巧みに誘導した。

 彼がそれを選ぶように。

「そうぬしも思ったから俺に――」

「少し、昔の話をしよう」

 覚明は加熱する景虎を遮り、茶を口に含み枯れた己へかすかな潤いを与える。

 きっと、これが最後の仕事であろうから。

「嫌だ。俺は俺の話をしに来たのだ」

「ふふ、相変わらずだな。だが、それでは不公平だ。私はそなたの話を聞いた。受け止めた。ならば、次はそなたの番だ」

「……ふん」

「不貞腐れる顔は、変わらぬなぁ」

 あの頃から二十年近くの時が流れた。年寄りにとっても旅の記憶は遠い過去の話。それより前の記憶など、すでに風化して枯れ落ちている。

 そう、枯れてしまったのだ。

「私には女房がいた。元服したての若造が、館の女中に入れ込み、周囲の反対を押し切って結ばれたのだ。まあ、女中と言ってもそれなりの家柄ではあったし、だからこそギリギリで許されはしたのだが……とても苦労をかけた」

「……」

 旅の中でも彼がかなりの名門の出であることは窺えた。当然、家人も有象無象の家柄では務まらないだろう。されど、所詮は女中、釣り合うほどの家柄ではなかったはず。ならば、公家と武家で立場は違えど名門の出、景虎にも容易に想像がつく。

 おそらくは千葉梅が体感したように、一種の迫害を受けていたはず。彼女は男児を生んだことが契機で良好な立場を得たようであったが――

「その頃の私と言えば、本当に間抜けであったよ。女房がそのような目に合っているとも知らず、毎日幸せで、浮かれていた。彼女が気丈に、私にそう見せぬよう振舞っていたのだろうが、それにしても、間抜けな男であったよ」

「……女房は、どうなった?」

「死んだ。心労が祟ったのだろう。たった一年だ、たった一年で、あれだけ元気だった女性が生きる力を失ったのだ。当の番は守ることもせず、間抜け面をして幸せいっぱい。何かおかしいと気づいた時にはもう、手遅れだった」

 彼が当時家長であればいざ知らず、嫡男であったとしても守り切れたとは思えない。それだけ家長とそれ以外では家中での力が違う。子がただ一人で全てを跳ね除けることは出来ない。そもそもが結婚したことが間違いだったのだ。

 そんなことは覚明もわかっている。

 間違いを犯さねば彼女は元気に生きていたかもしれない。何処か釣り合う家に嫁ぎ、人並みの幸せを築けたかもしれない。結ばれた後とて気づけていれば、何か出来ていた、かもしれない。後悔後先に立たず、全て『もし』でしかないが。

「気づけていれば、何か変わったか?」

「変わらんよ。父に逆らい、家を出て行く。その選択は、彼女を失ったから出来たのだ。雅な世界しか知らぬ者が、どうして市井で生きていける? 彼女とて、そういう世界の生まれなのだ。なかったよ、最初から。それを選んだ私の浅はかさ、世間知らずの無力な若造。本当に、呆れるほどに愚かであった」

 変わらない。言い訳などいくらでも頭に浮かぶだろうが、それらを実行できるかどうかの壁は景虎も嫌と言うほど知っている。

 沢山の夢を抱えながらも、出来もしないと端から諦めていた童が、景虎の中にもいたから。きっと、景虎はそれを選ぶことすら出来なかっただろう。

 無駄に賢しく、臆病でもあったから。

「せめて彼女を弔おうと、仏門に入った。こう見えて熱心な僧だったのだぞ。彼女を失った喪失感が、私に修行をのめり込ませたからな。だがな、これは建仁寺に限らぬが、いい所の寺に入る者の多くは、いい所の出であることが多い。名門の次男や三男、家督争いの火種とならぬよう、仏門に入れられるのだ」

 景虎も同じ理由で林泉寺に入れられた。確か、今川義元も同じであったはず。そうでなくとも仏門に帰依せず、学を得るために通いで寺院に通う者も少なくない。この時代の寺院は学校も兼ねているから。

 特に名門であればあるほど、その色は強い。

「彼らに全てが不真面目と言うわけではないが、そういう者も少なからずいた。私は浮いていたよ。慕ってくれたのはそれこそ承芳(今川義元)くらいのものだった。それもそうだろう、彼らはただそこにいるだけで役目を果たしている。修行を真面目にする必要などない。どう転んでも彼らは、代替の役割しかないのだから」

 嫡男が死んで初めて彼らは役割を得る。逆に言えば嫡男が存命であり、何の不幸も無ければ彼らに役割はないのだ。

 そんな人生、真面目に生きろと言う方が酷であろう。

「加えて、寺院の高僧たちもな、尊敬できる方もいたが、そうでない方もいた。寄進は各地から集まって来る。痩せても枯れても燃えても名門だ。だが、荒れた時代によって傷ついた境内の修繕は中々始まらない。どこかで銭が消える。朝廷と、公家の世界と同じだった。次第に私は呆れ、自らに在り方に疑問を抱くようになった」

「当然だ。俺ならもっと早くに見切りをつけておる」

「まあ延暦寺ほどではない。さすがに境内に女郎小屋はなかったからなぁ」

「ぶは、同じことだ。畿内の寺院、多かれ少なかれ皆脛に傷を持っておろう。そうでない者が、清貧であろうとする者が、あの魔境で生き残れるとも思わん。絶対に排斥されよう。と言うか実際にジジイのようにそうなった者もおろうが」

「……そうだな。出て行かされた者、出て行った者、清貧であればあるほどに、戒律に忠実であればあるほどに、畿内は目を覆いたくなるようなよろずに溢れていた。そうした者も多い。光育殿もその内のお一人であろう」

「ぬしもな」

「いや、私はそれらを見ても、何もなければ今も畿内にしがみ付いていたよ。弱い男であったからね。天文法華の乱、あの大火が、私の背を押した。京の半分、いや、三分の二ほどが燃えた大事件。宗派は異なれど、同じ仏門の徒、ふざけた情報はいくらでも入ってくる。彼らの争い、その理由も、発端も――」

 あの大事件、法華宗からすれば因果応報ではある。彼らとて一向宗が入京、となる際に自らの地位が脅かされるのを恐れ排斥し、寺院を焼き討ちした。その際に細川ら武家と手を組み、さらなる力を得たのだ。

 その結果、力が力を呼び法華宗は延暦寺と衝突することとなる。最初はちょっとした衝突だった。延暦寺に恥をかかせてやろうと宗教問答、まあ要するにレスバを仕掛けて見事勝利。レスバに負けて顔を真っ赤にした延暦寺はぶち切れて――

「酷い光景だったよ。経緯を知るから余計に、ね」

 京を燃やした。近江の名門、六角氏に助力を乞い、法華宗のことごとくを打ち倒し、さぞ気分も晴れやかであっただろう。京も焼け野原になったが。

 法華宗はまだ良い。彼らの驕りがその事態を招いたから。因果応報である。しかし、燃やされた京の民は、無関係の人々は、ただ巻き込まれただけ。政治が絡んでいたとはいえ、要は面目を潰されたから潰し返しただけ。

 子どもの喧嘩と何の相違も無い。

 命を偉そうに説く者たちが、その命を軽々に吹き飛ばしていたのだ。燃やしていたのだ。絶望もする。失望もする。いたたまれなくなる。

 恥ずべきだ、と畿内を去った僧は少なくなかっただろう。

「私は許せなかった。教えにそぐわぬ者たちが。何が五戒か、これだけ命を玩ぶ者たちがそれを説くなど片腹痛い。罪を犯して平然とする狸しか、おらぬように見えた。ゆえに京を去った。彼女の命を悼むために入った仏門が血濡れ、御大層な教えは塵より軽く、彼女を悼む気持ちすら汚されたような気がしたから」

 言葉に言い表せぬほどの複雑な思いがあったのだろう。これを聞き、改めて景虎は思う。あの時、京で得た答えは間違っていなかったのだと。上洛の折再確認した通り、あそこには死臭が漂っている。ハリボテが転がるだけの虚飾の都。

 吹き飛ばせばさぞ――

「だがな、虎千代よ。私はもう、あの頃確かに抱いたはずの怒りを、思い出せなくなってしまった。人は変わる。想いは風化する。だから――」

 覚明は突然、景虎に頭を下げた。

 突然の行動に景虎は理解が追いつかない。いや、もしかすると気づいていたのかもしれない。ここで再会した時から、枯れた彼を見た時から。

 あの頃、確かに彼の眼の奥にあった妄執、怒りが失せていたから。

「すまなかった。私の押し付けが、そなたを惑わせた。今、狭間で揺れ、苦しんでいることも、元をただせば私のせいだ。許せとは言わん。だが、もう縛られる必要などない。失せた怒りに囚われる必要など、何処にも――」

 覚明の謝罪を聞き景虎は、

「……ハァ?」

 貌を歪ませ、小さくなった彼を見下ろす。

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