第佰肆拾話:掌を――
「今年の夏は暑いですね」
「本当に。早く秋が来ないかしら」
とある尼寺で修行中、のはずの文春と青岩院は夜な夜な碁に興じていた。無論、尼僧は皆とっくに寝ている時間である。文春も寝る気満々であった。
しかし、そこは景虎の母、暑さのせいで寝付けないから、と掟破りの夜更かしを文春をも巻き込み、平然とやってのける。
禅寺を何だと思っているのか、とぶつぶつ住持は小言を言っていたが、生憎その程度で揺らぐほどの細い肝は持ち合わせていなかった。
「御実城様が出て行かれて半月ほどですか?」
「折角遊び甲斐があったのに……母は残念です」
「たぶん、そのせいかと思われますが」
「はて?」
天上天下唯我独尊を地で行く男、長尾景虎とて母の前には無力であった。散々弄られ、遊ばれ、からかわれたのだ。
越後一国の国主、長尾景虎が、である。
最後には半泣きになって、
『もう来ねーよ、バーカ!』
と言って去っていった。
「……何をしに来たのでしょうか?」
「それは文春に会うためでしょう? 母のことは恩知らずにも忘れていたようですし、それゆえに手厳しく接したのもまた母の愛と言えましょう」
(……それは、受け取り手次第かと思いますが)
自分が失念されていたから、道理で普段にも増して苛烈な弄りだったはずである。まさにこの母にしてあの男あり、であろう。
「私に会うため、と言う理由で御実城様がここへ来るとは思えないのです」
「あら、何故?」
「私は彼が自らの足で人と距離を詰める姿を見たことがありません。むしろ、率先して距離を取ろうとしている節すらあります。自らを災いの種とでも考えているのかはわかりませんが……意味もなく無意味に人へ寄りつくのは、変です」
「我が子ながら変人ですねえ」
ケラケラと景虎に似た笑い方をする青岩院。
「笑い事じゃありませんよ」
ムスッとする文春を見て、彼女は困った顔で微笑む。
「そうですね、笑い事ではないのでしょう。本当に」
「何かご存じなのですか?」
「愛です」
またこの人は茶化す、と文春は顔を曇らせるも、本人は至って真面目な様子であった。それどころか珍しく、少しばかり哀しげなようにも見える。
いつもとは違う様子に、文春は押し黙る。
「私はあの子のことをあまり知りません。金津から色々聞いていましたが、武家のしきたりに則り、距離を置いていました。貴人なれば我が子の世話をするべからず。抱きしめたことも、数えるほどしかありません」
「……青岩院様」
「百から千の間くらいです」
「……結構抱いていますね」
「金津に無理を言って……何分我儘なもので。あの子は私に似ています。表向きは瓜二つです。ですが、内面はあの人の方が近い。私は沢山抱きましたが、あの人は本当に数えるほど……されどそれすら許せずに、無理やり距離を置いたのです」
「先々代の」
「ええ。確かに、あの子は意味もなく誰かに縋ることをしないのでしょう。幼子の頃とは多少変わったようにも思えますが、さりとて本質は同じ。あの子も、あの人も、例外で弱くなる性質だと考えています」
「例外、ですか?」
「言い換えると愛、ですねえ」
「……」
「ふふ。きっと、文春は頭が良いので沢山考えたのでしょう。長尾景虎の行動の意味を考えていた。もう一人の子も、ね。あの子が去ったのは私が意地悪したからではありません。これ以上は二人に無用な思案をさせてしまう、とでも思ったのでしょう」
「無用な、思案?」
「ずっとそばにいた文春と、今もそばにいるあの子、二人が考えてわからないのであれば、きっと意味などなかったのです。今回の来訪には」
「ですが、それは――」
「ええ。だからこそ、あの子はかなり参っていたのだと思いますよ。そう見せなかっただけで。本当はやりたくないのに、やらねばならない。そんなことでもあるのではないかしら? 御実城様ですものね」
あ、と文春は気づきを漏らす。長尾景虎は強い。絶対に揺らがない。そんなわけがないのに、そうでないことを知っているはずなのに、無意識にそれを除いて思考していた。意味ばかりを模索して、何も見えていなかった。
「そんな時に、少し寄りかかりたくなることもあるでしょう? 人間ですもの」
「……私、何も気づいて――」
「それで良いのです。ただの気まぐれだった、そう考えてあげるのもまた女の甲斐性ですよ。男の子は弱いところ、見せたがらないでしょう?」
「……はい」
「それにしても、ふふ、二人共落ち着きがなくて面白かったですね」
「うう」
「ありがとう。あんな難しい子を好きになってくれて」
「いえ、その、好きとかでは、ないです」
「あら、残念。文春が娘になったら楽しいのに……もう一人の子も可愛いけれど、そこは欲目ね。私は文春推しですよ」
「もう出家しましたので」
「尼僧も人間、過ちはあります。誰にでも」
「……青岩院様」
「ふふ、これ以上は嫌われそうですね。あの子も文春も、武家の子でなかったら、百姓の子だったら、結ばれることもあったのかしら」
「……わかりません」
「そうね。この『もし』は、意味がないですね。ごめんなさい」
青岩院が何を想おうとも、長尾景虎は長尾為景の、青岩院の息子であり、直江文もまた直江実綱の娘である。それが変わることはない。
どうしたって彼らは武家に囚われてしまうのだ。
良くも悪くも――
○
大熊朝秀は迷いの中にいた。越中から一向宗、一揆勢力を招くのは背信行為に他ならない。長尾景虎を思えば止めるべきなのだ。
だが、同時に彼らは大熊家を構成する上で欠かせぬ人材でもある。何代も前から仕えてくれている家ばかり。越後上杉を盛り立ててきたが故、元々当主を挿げ替えた逆賊(彼らから見れば)の三条長尾とは折り合いが悪かった。
ゆえに一度は反目し、為景とは相争ったこともある。
積もり募ったモノが噴出したのか、彼らの目に迷いはない。彼らを止めるのなら、それは袂を分かつことを意味するだろう。それで大熊家が今までの役割を果たせるかと言えば、難しいと言わざるを得ない。
そもそもこの算段に与した時点で、果たして越後に居場所はあるのだろうか。まあ、越後を蘆名と武田が手を付ける際に、緩衝役としての機能を果たすことになるだろうが、それはあくまで武田らが勝った場合、である。
もし、袂を分かち、景虎へついて武田方を下したとして、その先に大勢が裏切りに加担した大熊家がそのまま許されるとも考え辛い。もちろん、裏切った上田長尾やキタジョウなど、平然と許された者もいる。
黒田のように滅ぼされた者もいるが――
されど彼らもまた、元の立場を考えれば席次は下がっているし、家臣の内心を鑑みれば見た目以上に低く見られている。手足をもいででも景虎についた場合、そうなった大熊家は果たして生きているのか、死んでいるのか。
わからない。何も、何も考えられない。
何故剣にのみ生きることが許されないのか。何故腹の探り合いをせねばならぬのか。好きでもない銭勘定をするのも、息苦しい評定も、好ましいと思ったことは一度もない。だが、己が大熊朝秀である以上、それをこなすのは使命である。
武士ならば家を残すことを優先すべき、と父が言った。
その絶対的常識を求めたなら、ことここに至った時点で彼らと心中するもまた仕方のないことなのかもしれない。
どう転んだところでもう、元には戻れないのだから。
「殿、殿」
「ん、あ、ああ。すまない。少し呆けていた」
「いえ。大したことではないので。ほら、あそこを見てください。とんでもなく美人ですけど、とんでもなくデカい女性がおりますよ。僧衣をまとっているということは尼僧なのでしょうか。御利益がありそうですね」
「……っ」
大熊は絶句する。随分上手く化けている。だが、人間骨格まで変えることは出来ないのだ。大熊は『彼女』を知っている。
僧衣で隠している骨格が全てを物語っていた。
「……すまぬ。少し用が出来た。先に進んでいてくれ」
「珍しいですね。奥方様を悲しませないでくださいよ」
「ああ。わかっている」
大熊朝秀は皆を先にやり、『彼女』の跡を付ける。美しく、しなやかに、されど素早く移動する動きは、もはや隠す気など無いのだろう。
人気のない林の奥で、
「……どういうことですか?」
大熊朝秀は問う。
「くく、よう見抜いたのぉ」
『彼女』は堂々とそう答えた。その答えに大熊は顔を歪める。今、ここはまだ国境近くだが越後である。越中の一向一揆勢力と合流するための移動中なのだ。
そこに突然、『彼女』が現れた。
「答えになっていない!」
「見たままよ」
高野山へ向かっているはずの、とっくに高野山入りしている頃の、
「何処まで把握されているのですか?」
「……俺がここにおるのだ。わかっておろう?」
『彼女』、長尾景虎が。
千の言葉を尽くすよりも雄弁に、彼がここにいると言う事実が、明らかに大熊を待ち構えていたような素振りが、彼を刺す。
最初からおそらく最後まで、全てが長尾景虎の掌の上なれば――
「拙者は、切り捨てられたのですね」
「そうだ」
大熊朝秀は笑うしかない。乾いた笑みが零れる。己が今、どんな顔をしているのかまるでわからない。怒っているのか、嘆いているのか、落ち込んでいるのか、悔いているのか、まるで、全然、皆目見当もつかない。
わかるのは景虎の貌だけ。
何一つ、小動もしていない彼の表情だけが、今を物語る。
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