第佰参拾捌話:次点の男、立つ
誰が音頭を取るのか、順当な序列で行けば本庄実乃、大熊朝秀、小林宗吉の奉行衆三名のいずれか、となるだろう。ちなみに小林宗吉は序列的にも立場的にも丁度いいのだが、戦働きに難があり本人も向いていない、と真っ先に固辞。
向いていないで言えば大熊も気質は真っ直ぐな武人であり、普段の政権内での仕事も家人ら総出で補っている面もあるほどで、彼もそちら側である。であれば残すところは本庄で、戦働きの面でも晴景時代は大いに奮闘し、政権運営も支障なし、なのだがそもそもの経緯が彼で良し、とさせてくれなかった。
そう、家中が真っ二つに割れた上野下平問題である。この緊急事態においてもそれは尾を引き、適役だから本庄に任せる、とはならなかったのだ。
これには当の大熊本人が一番参っていた。
己が柄ではないことは十分承知しており、普段なら本庄殿に任せた、自分たちは補佐に徹する、と容易く言えるのだが、今は家人や下平、大熊派の面々の手前、気安くそうするわけにもいかなかった。
結果が今、この有様であるが。
「直江殿、頼めぬか?」
「御三方を差し置いて私が手を挙げることは出来ませぬよ」
「それは、そうだが……しかし、このままでは」
「ふふ、どうなることやら」
府中、春日山は未だ混乱が収まらぬ状況であった。誰かが引くか、手を挙げねばならぬ状況であるが、どうしたって中枢の者が動けば角の立つ状況である。
ゆえに大熊も本庄も、すべきことはわかっているにもかかわらず何も出来ず、何も言えなかった。そもそも長尾景虎の代わりになる、と言うのが一番の問題なのだ。その辺の国主であればまだ代理ならば、と手を挙げることも出来たかもしれないが、良くも悪くも越後は長尾家の腕力によって治められた歴史がある。
それに頼らなかった晴景がどうなったかを思えば、普通にやり方でこの越後が治められるとも思えない。信濃には武田が、そして関東も再度長野らが北条に下り最後の砦であった沼田氏もまた陥落寸前。さらに国内には地場の実力者たち揚北衆が控えている。現状、こうしてごたついている時点で恐ろしかろう。
いつ彼らが刺してきてもおかしくはない。
そんな思惑があるのかないのかわからないが、
「ご無沙汰しております」
揚北衆の実力者、中条藤資が在地より春日山に顔を出す。揚北衆も一枚岩ではない。彼が長尾家はもう駄目だ、と判断したところでそれがそのまま彼らの総意となるわけではないが、それでも大きな勢力には違いない。
長尾為景、晴景、景虎をして、彼らの首に鎖を付けられなかったのだから。
「現在、御実城様は」
「伺っておりますよ。私はただ、見物に参っただけですのでお気になさらず」
「…………」
まとまらぬ家中を見に来たのか、それともこの有様を聞きつけ手を挙げに来たのか、どちらにせよ大いに問題である。景虎擁立の立役者でもあるが、彼は何処まで行っても地場の豪族揚北衆なのだ。彼らに政権運営を任せると言うことは、他国にそれを譲るも同じこと。緩やかな侵略行為に他ならない。
車座に並ぶ諸侯であったが、誰一人言葉を発することが出来ない。
意見を述べる、立場を決する、どの派閥に付くかどうかは組織において重要なことであり、それ次第で今後の明暗が分かたれると言ってもいい。
消去法で進行を押し付けられた小林が皆に話し合いを促すも、中条の目もあってか普段よりさらに重苦しい沈黙が続く。本庄、大熊はもちろん、直江や宇佐美、柿崎、斎藤、はいつも通りか。誰も口を開かない。
貧乏くじはごめんだ、と言わんばかりに。
(終わりだな、長尾家も)
ついこの前反乱したばかりの北条高広、ホウジョウではなくキタジョウと言う大変わかり辛い名前の男は内心思う。裏切るならここだったなぁ、と。
あまり反省はしていない。
(……仕方、あるまいな)
本庄実乃は遅まきながら決断しようとしていた。これ以上長引けば揚北衆すら敵に回りかねない。それは絶対に避ける必要があるのだ。
ここで意思表示をすれば角が立つのは承知の上。
大熊派と正面切って衝突することにもなろう。だが、このまま共倒れするよりも戦う覚悟をした方がまだ、意義はある。
それに最悪、派閥争いに敗れたとしても、本庄家には嫡男がしかと育ってくれている。己の首を落としても、次が繋がるのであれば――
「……」
ちらりと大熊へ視線を向ける本庄。それを見て、大熊は歯を食いしばる。
結局、絶対的な存在である長尾家に依存していたのだ。為景、晴景、景虎、全員性質は異なるが、迷うことなく引っ張っていったことに違いはない。
そして彼ら以前の君主である越後上杉家も存在しない。
安易な選択肢はもう――
「……私が」
諸侯が眼を剥く。とうとう、場が動く。
誰もが覚悟を決める。
どちらを掲げるか、を。
その時、
「失礼する!」
臥間を力強く開き、本庄の発言をその気配が遮った。
「……何と言う重苦しい空気か。葬儀か何かと勘違いしてしまいそうだ」
「上田殿」
上田長尾家当主、長尾政景が車座の末席に加わった。彼もまた本来であれば有資格者ではあったが、以前反乱した際に所領没収となって家の格が大きく落ちた。そうでなくとも父の代、為景か山内上杉かでコロコロ立場を変え、ただでさえ上田長尾が下に見られ始めた矢先の出来事であったため、なお感じが悪い。
ただ、本来であれば三条長尾、古志長尾、上田長尾の三家が守護代職を回していたわけで、誰も口には出さなかったが――
「本庄殿ではなく小林殿なのですね」
「致し方なく」
「……全く。大の大人が雁首揃えて何をやっているのか。御屋形様、っと、御実城様でしたか。あの御方を連れ戻すのが先決でしょうが」
「そうは申すが上田殿、その理由も行先も誰にもわからぬのです」
「乱破でも何でも使って調べたらよろしい。女房が言うには御実城様は女装をしている可能性が高いとのこと。あの身長の女人ならば目立つ。本人ならばなお目立つ。それに、誰か近しい人物に当たってみましたか? この場におらぬのであれば御付きだった直江殿の娘や天室光育殿、あとは住持をされている覚明殿辺りか」
「……」
笑顔のまま、娘のくだりで顔をひくつかせる実綱は相変わらず。
ただ、他の者たちは、
「女装、考えたこともなかった」
「え、御実城様って女装趣味なのか?」
「知らんよ」
「……!」
「甘粕殿がそんなことを言っていたような気がする? 何故それをもっと早く言わなかった、斎藤殿」
「……」
「聞かれなかったから、それもそうか。そう肩を落とすな。当然のことだ」
長尾政景がもたらした情報と、
「連れ戻すのが優先、か」
「確かに、道理だ」
優先順位を改める。そう、今は彼が出家した理由を問い質し、それを改善してでも景虎を連れ戻すのが最優先、と言うのが政景の考え方である。
誰を立てるか、本庄か、大熊か、その他か、そればかりを考えていた諸侯からすれば目からうろこ、であろう。まあ、身勝手に出家します、と言う男を引っ張らねばならないのも理不尽な話だが、対武田やそれ以外のことを考えても、
「どうせ家中をまとめるための一芝居でしょうし、このような無意味な時間は無駄の極み。さっさと終わらせて信濃、関東への備えをせねばならぬでしょうが。噂によると沼田殿がとうとう音を上げられるとのこと。上野国は北条が取ります」
「ま、待て、芝居と言うのは、どういうことか?」
「御実城様が出家をすると言い出したのは家中が荒れたからでしょう? どうせ嫌気がさしたとか言う気はしますが、本音はくだらぬ些事もほどほどにしておけ、辺りですかね。そんなもので心が病むほど可愛い生き物ではないでしょうし」
「くだらぬ些事と申したか?」
諸侯の中にいた上野と下平が政景を睨む。武家にとって領地とは家の格を示す最も重要なものである。それの行く末を、この男は些事と言ったのだ。
それは聞き捨てならない。
「なら、このまま御実城様を捨て置きますか? お二方の領地争いと、越後の静謐、どちらが重要かなど火を見るより明らかなこと。それともこの場で言いますか? 我が事の方が大事だ、と。それならそれで構いませんがね」
「……っ」
口に出した方である上野家成は歯噛みし、口を閉ざした。本音はともかく、今この場でそんなこと言えば、今度は自分が標的になるのはわかり切っている。
「今回の件、私が取り仕切らせて頂く。異論ある方は我ら上田衆がお相手致そう。これ以上、この程度のことで時間をかけるのは無駄。どうされますかな、皆々様方」
どっしりと座る長尾政景。その男が醸し出す雰囲気に諸侯は驚く。確かに第一次川中島での戦いでも活躍していたが、この場にいる諸侯全てがそれを知るわけではない。そうであったとしてもあの戦は景虎が目立ち過ぎた。
そう、いつだってそうだったのだ。
長尾景虎と言う強過ぎる光が全てをかき消していた。景虎に敗れた者、と言う看板だけが長尾政景を表していたが、彼がいなくなったことで見えた。
この男は決して凡ではなく、国主たる器であった、と。
ただ、相手が悪過ぎただけで――
「「「お任せいたす」」」
三奉行、本庄、大熊、小林三名が誰よりも先んじて彼を推した。迷いなどない。ずっとグダグダとしていた自分たちとは比較にもならないだろう。
景虎不在なれば、次は間違いなくこの男が立つ。
それが見えたから。
「もし御実城様が戻らぬ場合、このまま上田殿が仕切ることになりますかね?」
だが、そこに水を差すのは揚北衆の実力者、中条藤資。その眼、その表情からは何も読み取れない。政景が是なのか、非なのか。
「そうなれば喰われるだけ。武田か北条か……だから連れ戻さねばならない。残念ながら、私では力不足です。それは揚北衆であっても……同じこと」
「おや、売られていますか?」
「ただの事実ですよ。それとも国主に手を挙げてみますか? 私は止めませんよ。お好きにされるがよろしい。まあ、勝てぬでしょうが」
「……なるほど」
何に対し得心がいったのかわからないが、
「いえ、少し気になっただけ。他意はありませんし、私が手を挙げる気もありませんよ。揚北衆すらまとめ切れぬのですから。器足らずです」
意思表示をして以降、中条は笑顔のまま一言も発さず見に徹していた。長尾政景も彼に気をやることもなく、粛々と皆へ指示を飛ばす。
ただ一人、矢面に立っただけで事が一気に進んだ。
誰もがもう、彼を敗者とは思うまい。
「とにかく御実城様を連れ戻す。そのためにはお二人にも争いは控えて頂く。上野殿、下平殿、よろしいな?」
「「……はっ」」
どちらの立場にも立たぬ者が、力で抑えつける。これでようやく話が進む。これほど簡単なことでも、家や派閥が絡むと途端に難しくなるのが政治の世界。それは古今東西、あらゆる組織でも変わらない。
だからこそ中央より一線を引いていた彼が殊更際立つのだ。
毅然と、粛々と、指示を飛ばす彼は輝いていた。もし景虎が戻らずとも、次を任せるには足る。本人が如何様に言おうと、もはや彼しかいない。
「急ぎましょう。時間がない」
「応っ!」
上田長尾と言う血統、中央から離れていたにもかかわらずしっかりと状況を掴み打開策を考えられる知恵、何よりもこの停滞した状況を打破した決断力、満ち足りている。誰よりも、この場において相応しい。
だからこそ――
「……」
どろりとした視線が誰も知らぬ所で彼へ向けられていた。気づいている者はいない。皆、閉塞した状況が動き出し、方向性も示されたことで前向きになっていたから。だから、その眼に気づかなかった。
明日を羨むような、どろりとした何かが。
今はまだ、誰にも気づかぬほど些細な気配でしかないが。
とにかく彼が来て一気に状況が動き出す。結局のところ外圧がかからねば動けなかった、と言うのが越後長尾家の苦しい所ではあるが。
今までどれだけ景虎の決断力に頼り切っていたかが露呈した。そして、代わりとなる人材が家中に存在しないのも見えた。
同じ国内であるが、その外側に有資格者がいたのだ。一度大きな失敗をした。それで誰もが無意識に候補から外していた男である。
景虎がいなくなったからこそ、見える景色もあった。もしかするとこれが、景虎の目論見であったのかもしれない。当然、この場の者は誰も知り得ぬことであるが。
本人にも野心はない。あの日の敗戦が、きっちり若造の鼻をへし折っていた。だからこそ、そういうものに目がくらまず差配できる面もあろうが。
景虎不在の中、長尾政景が指揮を執る。
異論は一つも出なかった。
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