第佰参拾漆話:景虎出家するってよ

 弘治二年二月、武田晴信が調略で葛山城を守る落合一族を内応させ、労せずに犀川を渡り、裾花を越え葛山城までを得た。この報せが越後に届いたのはひと月遅れのこと。大雪の影響で身動きが取れずに越後勢は後れを取ったのだ。

 このままではまずい、と誰もが考えた。

 今川の調停により第二次の攻防が終息したのも束の間、これはすぐさま第三次だ、と皆が身構えている中、突然景虎がいなくなったのだ。

 出家する、とだけを残して。

 ただでさえ大熊、本庄の件で荒れている家中であったが、今回の一件はあまりにも強烈が過ぎ、逆に冷や水をぶっかけられる事態となった。

 長尾景虎抜きで武田晴信と戦う。曲者かつ自信家揃いの越後長尾家家中であるが、さりとて彼らは蛮勇ではない。過去二戦、体験した者であれば尚更、景虎抜きで渡り合えるとは思えなかった。なぜ今、と誰もが内心で悲鳴を上げる。

 葛山城までをろくに武力を用いず、しれっと奪い取っているあたり、何処まで蜘蛛の巣を張り巡らせているのかわからないのが、武田晴信の戦である。いや、彼のそれを戦と認識できている者自体が、家中にはさほどいない。

 それにしても武田も武田である。同盟相手である今川を絡めた調停であったにもかかわらず、雪で身動きが取れぬと見るや否やの速攻。盟約を反故とすることに些かの躊躇もない辺り、幾度の負けを経験しても本質は尖ったままである。

「御実城様はどちらに⁉」

「わからん!」

「大熊殿、上野殿が直訴に参ったとのことですが」

「今は御実城様不在で判断できぬ。在地に戻るよう伝えよ」

「は、はい!」

 大熊も本庄も、もはや争っている余裕などなかった。そもそも彼ら自身はそこまで仲が悪くなく、むしろ相反する立場をうやむやに出来たので、その辺りは奏功した、と考えることも出来る。が、やはり厳しい。

 葛山城を武田が得たとすれば、善光寺平はほぼ彼らが手中に収めたも同然。長尾家とも縁戚である高梨家が守る飯山城を抜かれたなら目と鼻の先に国境線があり、本格的に越後入りが見えてくるだろう。

 関東へ食指を伸ばすどころか、侵略戦争への備えをせねばならない。

 この一番重要な時期に、

「御実城様は何をやっておるのだ!」

 春日山に家臣らの悲鳴が轟く。

 そんな折に誰かが気付く。

「あれ、伊勢姫は何処ぞ?」

「……あんの、人はァ。出家するのに女連れかよ!」

「わからん。本当にわからん!」

 長尾景虎、女連れで出家すると宣い、春日山より出奔する。


     ○


「ぶはははは! 愉快愉快!」

「とら、声出しちゃ駄目」

「おっと、いかんいかん」

 そんな景虎が何処にいたかと言うと、まさかの尼寺に転がり込んでいた。当然女装している。声色に関しては昔取った杵柄、何とか誤魔化しつつ主に梅がしゃべる役割を担う。この完璧な計略を思いついたのでまず尼寺とした、と言っても過言ではないだろう。面白さは全てに勝るのだ、とは景虎の弁。

「あら、男の人の声がした気がしたけれど」

「気のせいかと」

「そうかしら? 変ねえ」

 小首を傾げる尼僧を見て、上機嫌の景虎。バレたらどうするつもりなのだと梅は内心ひやひやものである。が、そんな肝の太さで女装し日本をぐるりと回ることなど不可能。景虎の心は鉄で出来ていた。

「では、周りの世話はこちらの文春が務めさせて頂きます」

「……どうも」

「これ、もっとお上品になさい」

「……今後ともよろしくお願い致しますゥ」

「ぶは」

「あら、また」

「気のせいでしょう」

「そうかしら? 変ねえ」

 そんなこんなで尼寺に潜入した景虎一行は、

「……何してんのよ⁉」

 当然文春こと、直江文の怒りを買った。梅は申し訳なさそうにしているが、この景虎、微塵も気後れしていない。堂々と、

「何処でもよかったのでな。遊びに来たぞ」

 遊びに来たと言い切ったのだ。

「大変な状況だって聞いたけど?」

「ゆえに、だ」

 咎めるような視線を送る文春であったが、それを受けてなお平然としている景虎を見て、ため息をつく。

「必要なの?」

「最も傷が浅く済み、かつ越後が多少まとまる」

「そ、ならいい。奥に部屋があるからお二人でお好きなように使って」

「なんぞ含みがあるのぉ」

「別に。ただ、ここ神聖な尼寺だから。汚したら殺す」

「五戒」

「あァん?」

「何でもねえです」

 文春としてはあの別れからのこの再会に、結構思うところがあったのだ。せめてこう、再会するにしても違う状況があった、と思うものだが――

 そんな機微を景虎が理解するわけもなく、

「土産は吹いておるか? 高かったのだぞ」

「吹いてません」

「……ならば返せ!」

「返しません」

 言い合いが過熱するだけであった。乙女心は難しいものなのだ。

 まあ結局、

「さ、虎千代。母と遊びましょう」

「……あ」

「バーカ」

 うっかり失念していた母、青岩院を前にタジタジとなるのだ。彼女は御付きの者でも何でもないはずなのだが、修行する気など微塵もなく暇を持て余した彼女の猛攻撃の前に景虎は撃沈、攻められると弱い部分を露呈してしまう。

 ちなみに、

「お初にお目にかかります。千葉梅と申し――」

「顔が良い。好き」

「……はぁ」

 梅は顔面だけで青岩院に気に入られた模様。文春と梅、両手に花の状態で景虎を追い詰める様は、中々見られるものではなかったとか。


     ○


 四月、越後の混乱は武田にも届いた。伝令は喜び勇んでその報せを届けたが、意外にも晴信の表情は驚きから――曇る。

「御屋形様?」

「……その手が、あったか。クソ、馬鹿げたやり口だが、最善手だ」

 床を叩き、そのまま立ち上がって背を向ける。

「どちらへ?」

「厠だ!」

 そのままズンズンと歩き去る姿を見て、伝令は困ったような顔をする。腹心である春日虎綱も仔細を聞いていたが何とも言えぬ表情である。

「ど、どうされたのでしょうか? 春日殿」

「……わからぬ。我々には見えぬことなのだろう。気にすることはない。大義であった、と御屋形様に代わり伝えよう」

「あ、ありがたく」

 春日はため息をつく。現在、南信濃や北信濃でせっせと働いている他の三人とも話したのだが、最近の晴信は彼らの想像を超える行動が多く、まるで読めない日々が続いていた。村上の時はまだ理解出来たが、相手が長尾景虎に変わってから、何が見えているのかわからない時が多々ある。

 それが少し、恐ろしくなる時もあった。

 まるで人ではなくなるような、そんな気がしたから。

「……長尾景虎がこのままいなくなってくれたなら」

 出奔の情報、それに対し謎の憤慨を見せる晴信。まるで状況がわからない。そしてわからないと言うのはとても怖いことなのだ。

 相手が景虎でさえなければ――最近そんなことばかりを考える。


     ○


 そんな状況をよそに、越後長尾家の家中は何一つまとまらぬ状況が続いていた。誰が中心となるべきか、本庄か、大熊か、いやいや直江、いっそ揚北の中条あたりに、それはダメだ乗っ取られる、など様々な意見が飛び交う。

 まだ晴景が存命であれば迷う必要もなかったが、残念ながら先代当主は少し前に若くして『病没』していた。となると次がわからない。

 誰を立てても角が立つ。

 ゆえに誰も立たない。立ちたがらない。

 そのままさらにひと月が過ぎ、五月。

「……府中の連中は何をしておるのだ」

 ある一件以来、中央の政治には我関せず、の姿勢を保っていた上田長尾家当主、長尾政景は頭をむしゃむしゃとかく。いつ武田が無理やり越山してきてもおかしくないと言うのに、ふた月も経って混乱するばかり。

 さすがの彼も呆れるしかない。

「あら、ご機嫌斜めね、新五郎さん」

「斜めにもなる。どいつもこいつも越後には馬鹿しかおらんのか」

「酷い言い草」

 ケラケラ笑うのは上田長尾に嫁いだ三条長尾の娘、長尾綾であった。大きなおなかをさすりながら一歳になる息子を抱き抱えている姿はまさに母、である。

 この時代、高貴な女性は育児をしないものだが、反乱に失敗して所領を削られた上田長尾の女房なら、と屁理屈をこねて積極的に関わっているのが綾であった。

 その辺りを許していることからも、長尾政景、結構尻に敷かれている。

「やんちゃ坊主は?」

「奥で寝ているわ」

「……そうか。もう男は充分だ。次は女にしてくれ」

「神仏にでも頼んでくださいな」

「毎日しているさ」

 綾の腹をさすり、相好を崩す政景。意外にも政略結婚でしかない夫婦であったが、夫婦仲は大変よく、子どももすでに長男と次男が生まれていた。

 夫婦円満、跡継ぎの心配も現状無し。

 上田衆も笑顔である。

「少し府中へ行って来る」

「とうとう虎千代、景虎の席をぶんどりに行くのね」

「ぶんどらん。もう懲りた」

「ええ、つまらない。男は野心家の方が格好いいわよ」

「綾の弟が私にそれを持たせてくれなかったんだよ。鼻はとっくに折れているさ」

 女房である綾の頭と、次男坊の頭を撫でて、

「いってらっしゃいませ、殿」

「ああ。その子が生まれる前には戻、れたらいいなぁ」

「戻れたらいい、じゃなくて戻る!」

「……善処します」

 かつて彼女の弟にぶん殴られて、格の違いを教えられた男は今、女房の尻に敷かれながら何だかんだと幸せに所領を治めている。出来れば中央のいざこざとは無縁でいたいが、さすがにここまでもつれたのであれば首を突っ込むしかない。

 感覚としては火中の栗を拾いに行くようなものか。

「ではな」

「御武運を」

「戦わんよ。そうなっては困るから首を突っ込むのだ」

 かつて野心家だった男、長尾政景が行く。

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