第佰参拾壱話:第二次川中島の戦い

 此度の戦、陣容は犀川を挟み北岸に景虎、南岸に晴信と言う構図となった。何故こうなったかと言うと、両軍の思惑が絡み合った結果と言うしかない。

 まず、事の発端となった善光寺別当栗田鶴寿は犀川の北に位置する旭山城へ武田方の増援三千と共に立てこもっていた。景虎としても三千の兵を背に犀川を渡河するわけにはいかず、ここで景虎も大胆な一計を投じる。

 旭山城のさらに北、犀川よりも小さな河川である裾花川を挟んで北側に葛山があり、そこに城を築いたのだ。もちろん城と言っても簡単な造り、ほぼ山の形そのままに拠点を作ったようなものだが、これで旭山城の機能を完全に封殺したのだ。

 信濃における武田方最北端の旭山城籠城は、景虎を犀川以南に進ませぬための布石であると同時に、さらに北上するための攻めの一手でもあった。

 それを景虎が築城により蓋をし、その手を抑え咎めた形となる。

「……恐ろしいことだ」

 善光寺別当、栗田鶴寿はぽつりとこぼす。

 彼は信濃最大の信仰の聖地、善光寺を担う者としてどうすべきかをずっと考えていた。かつての時代のように寺院であれば生き残ることが出来る、そんな時代ではない。武力を持つことも、如何なる勢力に付くかと言うことも、全てが生存戦略のため。自分の代で善光寺をやつしてなるものか、と考えた結果の武田方、である。

 ここまでの戦場、ほとんどが武田晴信の読み通りであった。

 三千では守り切れない、とより多くの援軍を求めた鶴寿であったが、三千いれば戦闘は起きない。相手はそこまで甘くない、と彼は文書にしたためてきたのだ。

 こう打てば、こう返す、まるで練達の碁打ちの如しやり取り。相手への信頼があるからこそ、こういう手が打てる。

 晴信の読み、それをなぞるように動く越後の軍勢。ただ、葛山城を築いてからの動きは晴信の読みを外すものであった。

 彼らは葛山城を築き、裾花川を挟みこちらと決戦となる、と読んでいたところを、葛山城に長尾方の信濃衆、落合氏が入り、本隊は犀川北岸に陣を敷いたのだ。

 確かに晴信の読み通り戦は起きなかった。

 だが、

「なんと、深い踏み込みか」

 長尾景虎は武田晴信の想定を超えて、深く踏み込んできた。犀川は渡らない。されど、裾花川まで下がる気もない。ここで充分戦える、と。

「双方、化生である」

 鶴寿も善光寺を担う名僧である。当然、碁の嗜みはある。かなりの腕前であると自負もしていた。武田方でも屈指の打ち手である春日虎綱相手にも勝利するほどの男であったが、その眼に映るのは巨大な碁盤。

 それを挟み化け物が二匹、睨み合っている。

 一子が揺れている。

「御屋形様」

「……ちィ、抑えの手だけじゃ満足してくれねえか」

 武田晴信は犀川南岸に布陣して、大いに顔をしかめたという。されど、そもそもが一時的にここよりずっと南に位置する塩田城まで押し込まれた武田方が、僅か二年でここまで北上してきたのだから、戦略的には武田が勝っている。

 善光寺平と呼ばれるここら一帯を統べる要衝を調略で落としたのは、さすがの一言。しかもご丁寧に北条高広を動かして景虎には何もさせなかった。

「ぶは、よくも俺に守りの手を打たせよったな。高くつくぞ、晴信ゥ」

 景虎としても葛山城築城は本位な手ではなかった。頭を押さえねばじわじわ食い込んでくる。攻めを身上とする男が守りの手を打たされた。その時点で非常に業腹なことである。この踏み込みなど、それと比べれば屁でもない。

 二人とも顔を歪める。

 それと同時に、

「くはっ、じゃあ、戦をしようぜェ、景虎ァ!」

「生意気な猫が、捻り潰してくれる!」

 二人とも笑う。

 ここまで思い通りにならず、苦しく、楽しい戦は久方ぶりのこと。渇きが癒える。口の中に広がる血が、のどを潤してくれる。

 盤上、睨み合う二人が、

「「やるか」」

 孤高にて相立つ。


     ○


 犀川を挟んだ両軍は睨み合うこと数日、長尾景虎から動き出した。犀川を渡河し、一気にケリをつけてやろうと言う腹積もりであった。

 しかし、

「弓隊、ぅてェ!」

 晴信は前回の戦を生かし、遠間での戦いに特化した軍勢を用意していたのだ。しかも犀川と言う巨大な河川を渡りながら、となれば如何に士気高き越後勢でも容易く渡り切るのは難しい。その上、武田にはさらなる秘密兵器があった。

 それこそが、

「しっかり引き込めよォ。意外と射程は短いからなァ」

 堺にて発注した三百挺に及ぶ鉄砲、であった。取り回しの悪さから攻めの戦には使えない。その程度のことは晴信も理解している。だが、相手に攻めさせる戦でなら、対景虎ならばこの兵器、充分元は取れると踏んだのだ。

 高い銭を払って用意したそれは、

「鉄砲隊、ぅてィ!」

「なっ⁉」

 轟音と共に火を噴き、何とか渡河した越後勢を撃ち抜いていく。彼らは皆、体験したことのない音と、見えざる弾丸を前に戦々恐々としてしまう。

 何しろ、まだ畿内でようやく実戦運用され始めた時代である。まともに鉄砲を扱う相手と組み合うのは越後勢からすれば初体験。

 慄くのも無理はない。

「……ケェ、つまらん小細工を」

「先陣を切っての中央突破はどうした、ビビってんのかァ?」

 何かある、と踏んで今回は先陣を切らずに様子見に徹した景虎。これはもう嗅覚と言うしかない。もしくは晴信への信頼感か。

 第一次で自分の強さは見せた。なら、この男は絶対に対策を用意してくる。だから緒戦、動かなかった。動けなかった。

 この不自由さ、不愉快な感覚。

「全軍後退せよ!」

「追うなよォ。あくまで堅守だ!」

「ぶは、釣れんか」

「守り潰してやるよ。景虎ァ!」

 越後勢犀川渡河を断念。されど、武田方は不動。期せず武田晴信は直江文が長尾景虎を打ち倒した守り勝つ戦を仕掛けていたのだ。

 違うのは盤上か、戦場か、ただそれだけの違い。

 練達の者が観ればそこに、さしたる違いはなかった。


     ○


 犀川を挟んだ戦は前回とは異なり長期化の様相を呈していた。この状況がどちらの望み通りかと言えば、どちらにとっても望みの形ではないところで拮抗してしまっている、つまりは嫌な痛み分けを引きずり続けている構図である。

 景虎率いる越後勢からすると、背に旭山城の三千がありながら犀川を挟み武田軍と睨み合い続けており、どうしても精神的に来るものがある。相手が仕掛けてくるとすれば挟撃されてしまう形は、不安を掻き立てるには充分だろう。

 されど、晴信率いる武田軍にとってもこの状況は痛しかゆしである。そもそも挟撃しようにも犀川のせいで旭山城と連携を取る手段がなく、犀川を挟み長尾景虎が構えている状況はかなりの圧がある。加えて最大の懸念が甲斐から伸びる補給線の長さ、兵站の面で甲斐武田は常に苦慮してきた。今回もそれは同じ。

 貧しさと距離が武田の弱みである。

「旭山城から折り返しは?」

「来ておりません」

「……クソ、やられたか」

「おそらくは」

 旭山城と挟撃に関する相談をしようにも、放った間者はことごとく越後の手に落ちているようで、彼らが応答を持ち帰って来ることはない。まあ、景虎としても旭山城との連携は一番危惧すべきところ、しっかり押さえているのだろう。

 対して景虎も、

「……旭山城からの連絡は?」

「ありません」

「ぶは、内通者が捕らえられたか。一から仕切り直しよなァ」

「はっ」

 旭山城の脅威を取り除かんと水面下で動いていたのだが、おそらくは旭山城内の武田方の武将によって捕らえられたのだろう。情報が入って来なくなっていた。

 珍しく調略を用いた景虎であったが、不発と言ったところ。

 表裏どちらも状況は動かない。

 嫌な拮抗がずっと続いていた。

 士気の低下はお互い様。兵糧の面では若干景虎の方に余裕がある。距離の面でも春日山からの方が北信濃にはずっと近いのだ。ただし、だからと言って悠長に構えていられるほど越後勢は一枚岩ではない。ちょっと前に北条高広の反乱があったばかり。とにかく反抗の芽が絶えぬのが越後と言う土壌である。

 長期の対陣、何が起きるかはわからない。


     ○


 甲越の戦は駿河にも届いていた。

 駿府にて座す今川義元は信濃から届いた情報を見て目を細める。状況としては千日手、決着がつかない構図となっていた。

 だが、それは当人たちもわかっているはず。問題は双方、何処に着地点を見ているか、であろう。この状況が続けば先に参るのは武田となる。兵站の問題が重くのしかかるのだ。本隊もそうだが、旭山城も苦しい。ゆえに景虎は我慢強く待ちの姿勢を崩していない。あの少年が随分大人な戦いをするようになった、と義元は微笑む。本来苦手であろう待ちの戦も、それに対する術も随分こなれていた。

 この拮抗、有利なのは越後である。

 しかし、晴信も当然それはわかっているから、ずっと前から種をまき続けている札を使おうとするはず。あの一本気だった男が、今となっては調略を十八番としているのだから世の中わからない。裏で越後勢の切り崩しに動く。

 そうなると勝負は見えない。

 義元をしてどう転ぶのか読めない。勝敗は読めないが――

「ふむ、少々、私には都合が悪いな」

 この先、戦が長期化すればするほどにお互い後に退けなくなる。見方次第で有利不利が覆る以上、彼らは絶対に手を引かないだろう。北信濃の覇権争い、これ以上北上させたくない景虎と犀川を跨ぎ旭山城までは進みたい晴信。

 引くに引けない状況でもある。

 甲越の興亡を占う一戦、そうなれば折角組んだ三国同盟もご破算となる。景虎が勝ち切って晴信を討ち、甲斐を飲み込めば次は今川が相手取らねばならない。

 それは面倒だ、と義元は微笑む。

「もう少し、信濃でじゃれ合ってもらわねば、ね」

 少し前から荒れ始めた三河に、清州織田家の愚かな行為により大義を得た尾張の織田信長。荒れた所領に、急進する新星を抑え込むためにも、

「仕方ない。首を突っ込むとしよう」

 『海道一の弓取り』たる今川義元が景虎と晴信の戦に、割り込む。

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