第佰弐拾話:上洛の旅

 長尾景虎は感慨に耽っていた。かつて、渡し舟ではないちゃんとした船に乗った経験が一度だけある。駿府から伊勢へと向かう時の船、であった。

 約十年、今となっては随分昔に感じる。

「……今一度、彼の地へ、か」

 複雑な心境である。船に乗っていた頃はまだ、半分ほどの自覚であっただろうか。自分と周囲、愉快なことも不愉快なこともあった。

 自分が望まぬほどに特別なことも自覚し始めた頃、だった。駿府での経験、船の中で幾度も反芻したものである。

 意図せずに作り上げた自らへの教信者。あれが始まりだったのかもしれない。

 それを反芻しながら、辿り着いたのだ。伊勢へ、畿内へ、京へ。

 そして――

「……おええええええ!」

「気持ち悪い」

「とにかく寝転がっておけ。背中を地面につけておけば多少楽になるから」

「地面、どこ?」

「比喩だ比喩」

 舳先で海風を浴び、仁王立つ景虎をよそに、船未経験の家臣らの多くは船酔いに倒れ伏していた。時期的には悪くないのだが、前日に雨が降ったのと風が強いせいで冬ほどではないが海は荒れていたのだ。三半規管の弱い者には酷な状況。

「……?」

「大丈夫か、だと。愚問だ。斎藤殿」

「……」

「顔が青い? 気のせいだろう」

 個人差があるため斎藤朝信は大丈夫だったが、柿崎景家に関しては誰がどう見ても船酔いに飲まれていた。しかし、これまた武士のよくないところが出ている。彼は頑として背中を床に付けようとしなかったのだ。逃げな気がしたから。

 そういう武士は多い。それが結果として、

「おっぷ」

「……!」

 悲劇の連鎖を生むのだが。

「持の字、大丈夫?」

「大丈夫です。あと、私には持の字ではなく御屋形様から頂いた……へ?」

「……?」

 信濃の山育ち、残念ながら海には適性がなかった甘粕景持であったが、自らの様子を心配してくれた声の方に視線を向け、絶句する。

「……梅、殿?」

「……あ、内緒」

「う、ぷッ⁉」

 驚きと共に何かがせり上がってきたが、それを必死にせき止める甘粕。気合と根性で何とか止めたものの、八割五分ほどは侵略されている。

 次の侵攻はおそらく、止められない。

「な、何故ですか?」

「御屋形様が男装すれば来ていいって」

「な、何考えているんですか、あの人は。遊びじゃないのに」

「八割遊びと言っていた」

「……私には御屋形様がわからない。あと、船はもう、嫌だ」

「私は平気」

「う、羨ましい」

 こればかりは生まれ持った資質の問題。どれだけ陸で鍛え上げても、海で通用するかは完全に別問題なのだ。ちなみに船乗りでも最初の内は普通に船酔いする人もいるが、乗っていく内になれるらしい。三半規管も鍛えられるのだ。

 が、それは頻繁に乗る人のお話、である。


     ○


 死屍累々となりながら、越前国の敦賀湊へ降り立つ越後勢。船出こそ厳しかったが加賀や能登の辺りは構造上湾のような形となっており、復活する者も現れた。しかし、結局反対側に行くと普通の海、時間経過と共に波こそ落ち着きを見せたとはいえ、揺れるものは揺れる。酔う者は酔う。酔わない者は、

「どうだった、人生初の船旅は」

「潮風が独特だった。とても、楽しかった」

「そうか、ならよかった」

「……!」

「珍しく斎藤も声が大きいな。俺でも何とか聞こえるぞ」

「斎藤殿も楽しかったと言ってる」

「ぶはは、そうかそうか」

 酔わない。念願の地面に辿り着きつつ、未だ地面が揺れている感覚に苛まれている武士は皆、恥も外聞も関係なく無意識に千鳥足となっていた。

「大熊殿が桟橋から落ちたぞ!」

「それを助けようとした柿崎殿も落ちた!」

「ぐ、助けねば!」

「しかし我ら」

「泳げぬ!」

 この時代、泳ぎはそこそこの特殊技能であった。

 大熊朝秀、柿崎景家一生の不覚、と後に語る落水事故。柿崎と共に溺れそうになるところを、まさかの主君景虎が助けると言う大事となった。

 しばらくは、

「俺はぬしらの恩人ぞ? んん?」

「「ありがとうございます!」」

 擦り倒されるだろう、と二人は覚悟していた。基本的な景虎と言う男、人の心がわかってもわからずとも、傷つけ倒していく性質である。


     ○


「では、頼むぞ」

「はっ」

 景虎は領国の通行許可をくれた朝倉家への感謝状をしたため、それを家臣に一乗谷まで持っていくよう命じた。この時代、特に景虎のような貴人が他国を通過する際、その土地の支配者に一言添えねば大問題となっていた。

 今回の場合は越前国だが、そこで何かあった場合、何も言わなかったから自己責任とはいかない。野盗などや一揆勢、領国内での反乱に巻き込まれた、となれば御家の恥。しかも、将軍や朝廷へ話を通していた場合、当然彼らの耳に入る。

 管理はどうなっているのだ、となるだろう。

 ゆえに守護や大名は一言貰えば、責任を持って無事に通さねばならないし、通る側もしっかり許可をもらい、無事に通れたなら感謝の一つも送らねばならない。

 安全はタダではないのだ。特にこの時代では。

「さて、参るかの」

「はっ!」

 敦賀湊から越後勢は南下し琵琶湖の西側へ、湖に沿ってさらに南下していく。本来であればこのまま京都へ入るところだが、

「まさかなぁ」

「公方様が京におらんとは」

「細川と三好を並べ、細川を取って派手に敗れ去ったとか」

「そもそもさっき地元の者に聞いたが、細川が三好方の勢いを怖れて、ほぼ一戦も交えずに撤退したとか」

「……大丈夫か?」

「大丈夫じゃないから朽木にいるんだろ」

「確かに」

「ぬしら、何処に耳があるかわからん。口を慎め!」

「はーい」

 越後勢は今、近江国の朽木へやってきていた。先の話の通り、ついひと月前まで三好、細川の勢力争い、どっちが将軍を操り副王として君臨するか、と言う戦いがそこそこ長く繰り広げられており、将軍もどちらにしようかな、と大いに悩み、優柔不断に両勢力をウロチョロした結果、細川についてド派手に負けていた。

 当然、京にはいられず、北へ逃げ出し、今は朽木を御座所としていた。御座所とは貴人のおわすところ、この場合は将軍の本拠地、となる。

 まあ、つい先日やって来たばかりなので、

「こ、ここが朽木か」

「春日山の方がずっとデカいぞ」

「寂れているな」

「上洛って気がしないよな。逆に田舎へ来た感じだ」

「それ」

 将軍の御座所と言っても、ぶっちゃけると近江の実力者朽木氏の領地でしかない。しかも、一行は今日を中心とした価値観では田舎の越後からやってきていたが、そもそも春日山自体日本海側でも有数の都市であり、越後には湊も多数ある。

 価値観的に田舎だが、金回りはこの辺りよりべらぼうに良い。

「……結構栄えていると思う」

「ぶは、そりゃあぬしのとこよりかは栄えておるだろ。田んぼと掘っ立て小屋しかなかったからのぉ。あれでよくこの俺を招いたものだ」

「……人の故郷を、よくもそこまでボロクソに言える」

「事実であろう?」

「……事実でも言って良いことと悪いことがある」

「ぶはははは!」

 家臣らの何とも言えぬ視線がザクザクと刺さる。近侍の甘粕以外、『彼』の正体を知る者はいないのだ。春日山で見たことはあるが、と言う者がほとんどであろう。

 正体が女とは思いもしないが、誰だよ、とは皆が思っていた。

 まあ、景虎の機嫌が終始良いので誰も口には出さないが。

「が、天下を統べるはずの公方がこの有様ではな。先はなかろうよ」

「なら、何で来たの?」

「ん、くく、腐っても鯛、俺たちのような田舎者からすればの、生きていようが死んでいようが同じ公方様、なのだ。御言葉もまた、同じよ」

「悪い顔」

「当然。死にかけの阿呆を利用しようと言うのだ。善行ではあるまいさ」

 長尾景虎は朽木へ落ち延びた第十三代室町幕府征夷大将軍、足利義藤、のちの足利義輝へ御目通りをするため、ここまで足を運んでいた。

 正直寸前まで悩んでいたことである。果たして今の京、畿内の勢力的に、敗れ去った義藤を立てる意味があるのか、むしろ逆効果なのではないか、と色々考えた。考えに考え抜いた結果、あえて朽木へ足を向けたのだ。

 今はまだ、彼が征夷大将軍である。この先どう転ぶかはわからない。されど大義を求めるのであれば、やはり義藤なのだ。大事なのは今現在の実力ではなく、名が持つ権威である。三好にはまだそれがない。それでは意味がない。

 欲しいのは実より名、どうせ遠い畿内の話。

 どう転ぼうが知ったことではない。

「さぁて、落ちた公方とやらを見定めてくれよう」

 これより越後国守護代行、長尾景虎が征夷大将軍、足利義藤と対面する。

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