第佰拾玖話:遠足前

 上洛、と一口に言っても目的は様々である。例えば追放された将軍を伴って、足利の血統を伴っての上洛となれば幕府の頂点を挿げ替え、その補佐として強権を、もしくは実権を握るのが目的である。将軍の威光が弱まっても、いや、弱まっているからこそ、将軍としても武力が必要であり、この構図は双方益があった。

 また、権威向上の側面もある。そもそも上洛は少し前までは珍しいことですらなかった。各国の守護職に就く者には在京義務が課され、領国との行ったり来たりは日常茶飯事。それが守護のお仕事でもあったのだ。

 が、応仁の乱で幕府の権威が失墜し、そこから領国に腰を据えていた守護代や、その土地の実力者たちが守護を物理的に、実質的に外していき、実権を毟り取ったことでその構図は完全に崩れ去った。ゆえに上洛は日常ごとではなくなったのだ。

 それをあえて今行う。

 まず、自らの領国をしっかり固めていなければそんなことは出来ないだろう。それを多方面へ示すことが出来る。同時に、すでに失われたものであるが本来の守護としての職責を果たすことで、内外へ自らが国主であると示すことも出来る。

 加えて、すでに朝廷より弾正少弼の官位と治罰の綸旨を賜っていたが、直接帝より何かを下されたわけではない。上洛し、帝より御言葉の一つでも賜ることが出来たなら、権威の面でより大きな箔がつくだろう。

 信濃攻めの大義、そしてその先にある関東への布石も、得る。

 それが越後の、長尾景虎の狙いであった。


     ○


 同じ頃、駿河国の駿府では小笠原長時を迎え入れるために大忙しであった。ただでさえ三国の同盟をまとめるのに忙しいところを、厄介な火種が押し付けられてきた形である。とは言え、無下にも出来ぬのが今川の辛い所でもある。

 小笠原家は武家社会における『有職故実』の中心的存在、礼典や武芸において小笠原流の存在は極めて大きく、実力以上に重要視されていた。

 いつの世も上流階級における礼法の存在は強い価値を持ち、その振舞いの教科書と言ってもいい小笠原氏の手を跳ね除ける選択肢は、残念ながら公家を通して畿内、京との繋がりを深めることに注力する今川にはなかった。

 幕府との関係はともかく、朝廷とは今しばらく蜜月を、と考えていたのだ。

 だからこそ、今回お鉢が回って来たとも言えるが。

「父上、よろしいのですか⁉」

「氏真……よろしいも何もこう打たれたら、こう返すしかないのです。今回は越後に上手く使われた、これはもう結果ですよ」

「しかし、これでは――」

 父義元の眼が冷めていくのを感じ、嫡子である氏真は押し黙った。普段穏やかで、誰に対しても温和な父であったが、息子に対しては多少圧をかけることもしばしばあった。氏真としてはそれが期待の裏返しなのだと思っていたが、

「竹千代」

「はい」

「氏真に付き、武田方への対応をお願いします」

「はっ。北条へは如何致しましょうか?」

「見えているのであれば、そちらも任せます」

「若様と共に励みます」

 この男が来てわかった。ただ、自分が今川義元と言う男から見て物足りない、それだけであったのだと。自分よりも五つも下なのに、元服もしていないのに、そもそも嫡男と人質と言う立場の違いもありながら、

「氏真、竹千代と共に上手くやりなさい。そなたが思うよりも小笠原の名は重く、力があるのです。領国を奪われたとしても……歴史と文化は消えない。彼の気分を害すことなく、つつがなく畿内方面へ送り出す。責任は重大ですよ」

「はっ!」

 母に武田との血縁を持つ氏真主体で、何とか弟の無事を武田に飲ませる。その補佐として竹千代を付ける。だが、実態は氏真主導ではなく――

 氏真と共に義元のいる部屋より退出する竹千代。

 少し離れたところで、

「父上の信を得ているからと言って調子に乗るなよ」

「そのようなことは」

「仕事の前に剣の稽古をつけてやる。付き合え」

「はっ」

 氏真は思う。武芸も、和歌や連歌、蹴鞠などの嗜みも、五つ上と言うことを差し引いたとして、竹千代に劣るとは思わない。常陸の名手塚原より指南を受けた自らの剣は、その実力をひけらかさぬ父相手こそ見えぬが、すでに今川家の家臣団を含めても随一である。若き竹千代では相手にならず、稽古を付けるという言葉に偽りはない。今の彼に稽古を付けられる者が、この駿府にはいないのだから。

 文化的な素養も飛び抜けている。京より落ち延びてきた公家の相手は、義元から氏真に移りつつあったのだ。その部分でも彼は秀でている。

 そういう教育を施されてきたから。

 それなのに、

「何故、父上は――」

「…………」

 自分ではなくこの男にばかり気をかけるのか。それが許せない。それが認められない。自分こそが今川義元の後継者なのだ。

 断じて、人質でしかないこの男では、無い。


     ○


 厄介払いを駿河今川へ押し付けた越後長尾家では上洛に向けての準備が大急ぎで行われていた。出来るだけ早く出発せねば、帰りに雪で阻まれかねないのだ。そうでなくとも景虎が立てた行程、もとい行きたい所一覧は網羅すれば時間に余裕はない。しかも帰りは徒歩で、とかわけのわからぬことを言い出す始末。

 さすがに国主不在で年越しは避けたい越後勢一同、我儘国主の希望に応えるために粉骨砕身で諸々の手配を行っていた。

「越前からの折り返しはまだか⁉」

「確認して参ります!」

「公方様が朽木に? 何なんだよ畿内はもう!」

「三好が別の公方さまを立てるとか立てないとか……どうしましょ」

「知らねえええええ!」

 皆が不平不満たらたらの中、直江実綱だけは嬉々として動き回っていたが。

 そんなことも露知らず、

「上洛は少数で行く。名目は寺社詣とする以上、余計な戦力を引き連れておっては畿内の連中を無駄に刺激することになりかねぬからな」

「では、五十人ほどに致しましょう。留守居は如何致しますか?」

「直江、本庄、金津辺りで」

「いつもの、ですな」

 いつもの一人である本庄実乃はため息をつく。実は上洛に付き添いたいなぁ、京に行ってみたいなぁ、堺も見てみたいなぁ、と思っていたのは内緒である。

「御座所などに赴く際、あまり失礼なきよう大熊、柿崎辺りは必要だの。山吉は……ぬしらの目付でよかろう。持の字は戦で頑張ったから俺の御付き。あとは適当で」

「しょ、承知致しました」

 ぶん投げやがった、と憤る実乃。こうなったら公私混同して自分の代わりに息子の清七郎でも入れ込んでやる、と思っていた。

「む、そうだ!」

 ぴこん、と何かを思いついた景虎を見て、実乃の顔がかすかに歪む。また無理難題を思い付いたのではないか、と嫌な汗をかいていたのだ。

「一人、枠を空けておけ」

「誰を入れるのですか?」

「ぬしらが知らぬ者を、だ」

「……?」

 誰も理解出来ぬまま、一人笑う景虎であった。

 たぶん、こういうのが一番側近たちの胃を痛めるのだが、生憎景虎に人の心は理解出来なかった。と言うか理解しても気にしない。


     ○


 信濃から帰ってすぐ、慌ただしく旅立ちの準備を始める景虎に声をかけることも出来なかったのだが、まさかのお呼び出しがかかった。

 景虎に限ってそう言うものではないと思うのだが――夜に自分が呼び出される意図が掴めない千葉梅はうんうんと考え込んでいた。

 そう言うのであった場合、自分はどうすべきか。文のこともあるし、今すぐにお手付きと言うのは正直心情としては『なし』である。

 だが、同時に彼女は人質ゆえに断る権利など持ち合わせていない。

 となると――みたいな考えが堂々巡りしていたのだ。

「失礼します」

 しかし、少し警戒しながら部屋に入ると、その疑問は一瞬で氷解してしまった。景虎の前には碁盤が置かれていたのだ。

「出来るか?」

「出来るけど、得意ではない」

「ならばこの俺が直々に教えて進ぜよう。何を隠そう、文を鍛えたのはこの俺なのだ。人を育てる、まさに名将であるな。ぶはははは!」

「……文さんは覚明様が師匠と言っていた」

「へ? あ、あの女、この俺が手取り足取り教えてやったと言うのに、その大恩を忘れよってからに……許せん!」

 童のように起こる景虎を見て、考え事がかすりもしなかった事実に梅は苦笑いを浮かべてしまう。この男は本当に、いつになっても子どものままなのだ。

「かくなる上はぬしが文を超えよ。指導者として俺が覚明の上に立つには、それしかあるまいて。案ずるな、この俺の指導には定評があるのだ」

 俄かには信じられない、と梅は思う。

 だってこの男、

「馬鹿ァ! 何でこんなとこに打つのだ? 意図を言うてみい、意図を」

「適当」

「馬鹿あほ間抜け!」

「疲れた」

「考えてもおらぬのに疲れるか馬鹿垂れがぁ!」

 致命的なほど教えることに向いていなかったから。たぶん、景虎の教えが良かったのではなく文の飲み込みが良かったのだろう、と梅は考える。

 教えると言っておきながら馬鹿とかあほとか間抜けとか、悪口が大半を占めているのだ。これではとても人に教えることなど出来ないだろう。

「文さんは偉大」

「……ぐぬ、いや、まあ、昔のあやつも今のぬしに負けず酷かったがの。しかし、年齢がなぁ。今から強くなっても三十は超えるぞ、文だとしても」

「人間には向き不向きがある」

「ぐぬ。持の字も一向に強くならぬしなぁ」

「結構強いと城内では噂になっている」

「ええ、あれでぇ? クソ弱いぞ」

「とらと文さんが強過ぎるだけ」

「……早う修行を終えて寺から自由に出入り出来るようにならんかのぉ。実綱が死なんと厳しいか……今実綱の死なれるのもきついのぉ」

 何たる自分本位か。ただ、きっと今の悩める景虎を見たら、文の留飲も少しは下がるだろう。どうだ、よくわかったか、なんて言いそうである。

「まあよい。向いておらぬのはよくわかった」

「わかればいい」

「なんでわからんのに偉そうなんだ?」

「極々普通。自然体」

「なら、ぬしは生来の無礼者であろうな。と、まあよいのだ。用件は別にある」

「色事は極力控えて欲しい。喪中」

「誰の?」

「文さん」

「死んどらんわ! いや、だが、世を捨てたのだから、あっておるのか? そんなわけは、んん? わからんくなってきたぞ」

 果たして文は俗世に置いて死んだのか死んでいないのか、本人不在で大変不謹慎なことを真剣に考えこむ景虎。しかしここではたと気づく、

「阿呆が! そもそも色事ではないわ!」

「よかった」

「それもそれで傷つくがのぉ。まあ、後家だしな。貞淑なのは良いことだ、うむ」

 そういうつもりではないのだが、景虎の何とも言えぬ表情が見れたので梅の中では大成功である。何が成功なのかは彼女にしかわからないが。

「ごほん。俺が京へ行くことは聞いておるな」

「もちろん」

「羨ましいか?」

「遊びに行くの?」

「八割遊びに行く」

「なら、羨ましい」

「来るか?」

「行く」

「なら、決まりだ」

「……え?」

 適当に合わせていたら、まさかの京行きが決まった関東諸侯が娘、千葉梅。

「男装して、俺の近侍としてなら行ける。御座所などには連れていけぬが、堺辺りでは好きにしてよいぞ。俺はあそこに行くのが夢でなぁ」

「とら」

「何じゃ?」

「大好き」

「……喜んだのであれば何より」

 彼女の眼が好奇心に煌めいていた。それはまあ、この時代どのような身分でも関東に生まれて西に行く機会など早々ない。隣の国すら戦争が無ければ足を踏み入れることすらないのだ。そんな中での京都行、しかも堺付きである。

 喜んでくれたのは良いのだが、

「……何故かこう、腑に落ちぬ」

 現金な彼女から、幼き自分が聞いたら小躍りするような発言が飛び出たため、逆に何とも言えぬ表情となった景虎であった。

 若干、頬に朱が差しているのは、内緒である。

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