第佰拾捌話:景虎、帰宅

 長尾景虎の戦に振り回され、越後勢の疲労は頂点に達していた。動き回る体力もそうだが、どう動くのか先の動きがまるでわからない、と言うのは精神的な消耗著しく、兵以上に本来考えねばならぬはずの将たちの方が疲労を蓄積していた。

 景虎は気にせずモリモリと夜食と称して味噌を塗りたくった巨大な握り飯を豪快に食べていた。微塵も疲れている様子は見えない。

 誰よりも先頭に立ち動き回っているはずなのだが――

「恐ろしい男だな、そなたらの御屋形様は」

 信濃の猛将、村上義清がこぼす。それを聞き平子らは苦笑した。何故重要拠点である塩田城を見逃したのか、退いた後で一度口論となったのだが、村上自身が放っていた斥候が答えを持ち帰り、彼は謝罪する羽目となった。

 あの空城に見えた塩田城には武田方の戦力が秘密裏に入り込んでおり、越後勢が攻めて来るのを待っていたようなのだ。

 油断して城に入った所を攻撃されたなら、おそらくただでは済まなかっただろう。城とは迎撃するための仕掛けに富んだ構造物であり、上手く使われたなら大きな戦力差を引っ繰り返すことも可能なのだ。

 己だけであれば好機と飛び込み、大きな痛手を被った。その答え合わせが村上にとって明確な格付けとなった。彼らには到底届かぬ、と。

 かつて二度破った男も、見切った方も、すでに己の範疇にいない。

「だが、御屋形様の戦は再現性がない。あの御方以外が真似をすれば大敗するだけだ。そういう意味では、越後にとってあまり益はない」

「新五郎殿」

「明日も早かろう。私はここで失礼する」

 長尾政景はこの場を後にする。すでに日も沈みそこそこ時間も経っている。眠り、明日に備える頃合いではあるだろう。

「そ、その、新五郎殿に意見するわけではないのですが、例えば大熊殿とか、御屋形様よりも腕の立つ武人はおりますし、再現性がないのは言い過ぎなのではありませぬか? 技前さえあれば、再現適うと思うのですが」

 若輩であることは承知の上で、自らが敬愛する景虎の戦を悪く言われたことに腹を立てたのか、甘粕が少し不機嫌そうにこぼす。

 それを聞き平子がどう言うべきか、と思案していると――

「長尾殿よりも腕が立つ武人でも、あの戦は真似できぬ。人がついて来ぬのだ。普通、あそこまで将が突き進んではな」

 村上が口を開く。甘粕は何とも言えぬ表情となる。

 納得や理解ではない。ただ、

「そう言えば勇猛果敢な若き武士の名を聞いていなかったな」

「……甘粕持之介と申します」

「……甘粕? 出自は?」

「信濃です!」

 そう言って立ち上がり、甘粕もまた去っていく。無礼な振る舞いだが、村上に咎めるような雰囲気はなかった。むしろ、

「……そうか、生きておったのか」

 かつて、おそらくは自らが滅ぼした武家であることを察し、彼の境遇を慮る。勢力拡大のために戦を仕掛けたことも、彼らを滅ぼしたことも過ちであったとは思わない。武士として、武家として、至極真っ当な行いであると彼は思っている。

 だが、同時にあの年頃の少年が、かつての勢力争いの折に人買いに売られ、越後に流れ着いた。それを想うと、何も言えなくなる。

「御屋形様が目をかけている子です。優秀ですよ」

「ああ。腕も立ち、長尾殿にもよく食らいついている。あの若さで大したものだ。良い武将になるだろう。今回の戦でも目立っていた」

 平子の言葉に村上も頷く。特に初戦、あの無茶な中央突破を成立させるにはきちんと下の者が付き従い続けねばならない。最後は振り切られ、好機を逃す羽目になったが、あれを家臣のせいにしてはならないだろう。

 実際に景虎もねぎらいの言葉をかけていた。

「そしてもう一人」

「ええ。驚きました」

 彼らの脳裏に浮かぶのは今回、おそらく現場の評価を大きく覆した人物である。それは先ほどこの場を去った、長尾新五郎政景であった。

 二戦目、馬場信房との本隊を分けた者同士の一戦は、すでに信濃攻めや山内上杉との戦でも武名名高い馬場信房を相手に、辛勝、実際は引き分けであろうが、まず渡り合えるとは思っていなかったのだ。牽制として上田衆を使った、平子らはそう思っていた。何せ、少し前に上田長尾は景虎相手に醜態をさらしたばかり。

 諸侯から侮られるのも仕方がない。

「本人を前にして言いたくはないが」

「私よりも強いでしょうな。子飼いの上田衆が強い、と言うのもあるのでしょうが、あれだけ将兵の質が高い相手とも互角とは、恐れ入ります」

 ただ一人、景虎だけは出来ると思っていたのだろう。結果を聞いた後、政景に彼はこう言った。『もう少し勝っても良かったのだぞ』と。

 これは彼の実力を信じていなければ出ない発言である。

 政景も充分に若い。あの若さであれだけ戦えるのであれば、自信の一つや二つ持ってもおかしくはないだろう。越後国の中でも指折りである。

 若く、才気溢れる武士。

 ただ、上に長尾景虎がいただけ、それだけなのだ。

「……新五郎殿の武勇を見るに、今まで御屋形様の前に敗れて来た者たちも、不当に低く見られている者たちは、少なくないのでしょうな」

 庄田がぼそり、と呟く。

 長尾諸家、黒田秀忠、長尾晴景もそう、そして今回輝きを見せた長尾政景、彼らの本当の実力と言うのは誰にもわからないのだ。

 長尾政景には今回のように挽回の機会を与えられた。だからこそ、これから先彼を侮る者は大きく減るだろう。しかし、すでに死んだ者や機会無き者は――

「強過ぎるがゆえ、か」

 政景の言葉にも一理ある。あの戦は誰にも真似が出来ない。絶大なカリスマ性と圧倒的な武力、二つが備わって初めて成せる神業である。それを真似しようとする愚か者は、今この時点ではいないだろうが、この先どうなるかはわからない。

 彼の戦ばかりを見て育ち、それ以外を知る者がいなくなった後の時代、果たして景虎の戦を否定し、普通の戦を志す風潮になるかどうか。

 正直、今の彼らにはわからない。景虎がいつまで健在で、この戦を続けられるかもわからないのだ。五十、六十でこの戦は、さすがに出来ないと思いたい。

 それこそ人間ではない、と思ってしまう。

「明日はどうなるか」

「御屋形様のみぞ知る、ですな」

「……それもどうかと思うがなぁ」

「寝ましょうか」

「「応」」

 村上、平子、庄田らも床へつく。今回の戦、収穫はあった。相手を塩田城まで押し込み、葛尾城などを奪還できたことはもちろんのこと、長尾政景の才覚、それに甘粕景持もその輝きを見せた。得るものはあったのだ。

 しかし、同時に政景の言葉が響く。

 この戦を続けても、再現性はなく越後に得るものなど無いのでは、と。

 それは間違いなく、道理であった。


     ○


 武田晴信率いる本隊が塩田城に入ったという報せが届いた。てっきり増援部隊を交えてこちらへ向かってくる腹積もりかと思えば、消極的な動きである。

 包囲し、敵の出方を待つか、相手を引きずり出すような動きをして決戦に持ち込むか、景虎の決断が待たれていた。

 そして――

「俺は帰る」

 開口一番、彼はそう言い切った。現状、優勢でありもう少し押し込める可能性も、武田を北信濃から駆逐できる可能性すらあるのだ。

 ここで手を引くのは悪手では、と多くが思う。

「不満か、政景」

「新五郎とお呼びください。まあ、不満です」

「ぶは、言うのぉ」

 彼だけではない。大勢が口には出さぬが、同じことを思っている。

「武田の増援、それほど数はおらぬのだろう。無理やり士気を高めてやり合おうと狙った八幡での決戦を外され、士気はほぼ互角。五分の戦で雌雄を決さんとするほど、阿呆ではあるまいよ。俺なら仕掛けん。それに、連中の食糧事情は常にひっ迫しておろう。むしろ北信濃の食糧を当てにしておった可能性すらある」

「……そのための火付けであった、と?」

「半分はな」

「もう半分は?」

「面白いからやった。ぶはははは!」

「…………」

 政景は苛立ちつつも、あの火付けに意味があったことに驚いていた。遊興や民への脅し、武田方になびくとこうなる、ぐらいのものだと思っていた。

 しかし、食糧を焼き、彼らが食糧を求めて取りに来る理由を消した、と言う理由があったのは驚きであろう。これで塩田城から出て、北の城を再度落としても、住民たちを食わせるために身を削る必要が出て来るかもしれない。

 利がない。得がない。取る旨味を削ったことで、武田が今無理をする理由がなくなったのだ。大人しく塩田城までで手を打つ方が得、まであるかもしれない。

 まあ、焼いたのは一部地域だが、彼らが雪の時期までに手中に収められる範囲は精々それぐらいと考えると、手を引く理由にもなるだろう。

「俺の読みではじき、晴信は退く。ここからしばらく力押しはせず、せっせと姑息に調略にでも勤しむだろうよ。次の争点は北信濃の中心、善光寺辺りとなるかの」

 武田としても今回、越後が出てきたのは予定外であっただろう。景虎の信濃入りこそここひと月の話であるが、平子らを送り届けてからは五か月近く経っている。その間、戦い通しと考えれば両軍とも厭戦感も増す。

 貧しい甲斐としては一旦手打ち、もう少し状況が好転してから、もしくは一旦終わらせて景虎のいぬ間にじわじわ足掛かりを築く。

 今すぐに動けるほど、甲斐は余裕のある国ではない。

「俺はこれより上洛もするのでな。足場固めは任せるぞ、新五郎。冬入り前には越後勢を率い、一旦国へ戻ってよい。それまでは、まあ、頑張れ」

 景虎と共に信濃入りした政景はともかく、また帰れなくなった平子と庄田は何とも言えぬ表情となっていた。それでも泣き言は言えない。

 武士だから。

「初顔合わせは引き分けかの、先が楽しみだ」

「いえ、戦術目標を達成した我らの勝利かと」

 政景は全体の士気高揚のため、また、帰国した際の国内向けに触れ回る勝利報告のためにも、ここは勝ちであると示すべき、と言った。

「なら、それでいい。俺は勝ったと思っておらぬし、負けたとも思わぬ。どちらかと言えば、確かにぬしの言う通り、勝った、とするがな」

 こうして短い期間であちこちを転戦した俗に言う第一次川中島の戦いはピリッとせぬ形で終わりを迎えた。

 塩田城で睨みを利かせる武田に対し、長尾はそこまではやり合えぬと手を引いた形である。勝ち負けに関しては見方次第だが、今回は長尾に軍配が上がるだろう。ただ、景虎の気分としては勝敗つかず、と言ったところであるが。

 ただ、武田からすれば、

「景虎が帰っただァ⁉ 俺はまだ目と鼻の先にいるんだぞ!」

「……こちらの台所事情も見切られているようですね」

「うがぁぁあああああ! 治水だ治水、食いもんがねえと戦いにならねえ!」

「国内を固めるのも大事ですね」

「クソが、今回は素直に認めてやる。だけどな、俺はしつこいぜ! 勝つまでやるのが俺の流儀なんでな。見とけよ、景虎ァ!」

「兄上、負け惜しみにしか聞こえません」

「負け惜しみなんだよ馬鹿たれェ!」

 全てを見切られたと思い、敗北感に苛まれていた。武田晴信は逆襲を誓う。そんな兄を見て、武田信繁はため息をつくのであった。

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