第佰壱話:戦の天災
越後に限らず、この時代の国と言うのはそれ単体で成立するものではなく、郡などいくつもの領地を持つ国衆らの集合体である。それゆえに守護、守護代とは言え彼らに一方的な命令は出来ないし、しようとすれば反発を受けるのだ。
守護、守護代にあるのは朝廷、幕府から与えられた大義が主である。つまるところ、彼らの権威があればこそ守護らは存在し得る。特にかつて京にありながら何か国もの守護を任されていた超名門らは、権威こそが全てであった。
しかし今、時代も移り変わり直接管理できぬ守護は現地に居を構える守護代に取って代わられ、守護の在り方自体も変わりつつある。より独立した集合体へと。
権威は薄れ、自らの力こそが集団をまとめる楔となる。群れの長に求められるモノが変わりつつあるのだ。権威から力へ。
力とはすなわち実績。その者が如何なることを成したか、ここに尽きる。だからこそこの時代、下から這い上がってくる者は多い。権威に胡坐をかく者を尻目に、地道に積み上げてきた者は『力』を備え、人を率いる資格を得る。
若く、実績を持たぬ者。軽んじられても仕方がない。実績がないのだ、仕方がない。それで容易く治められる時代ではない。たかが守護、たかが守護代、何するものぞ、これが今の時代における多くの国衆らが持つ考え方であろう。
だから、長尾景虎は欲していた。
「ぶはは!」
敵を。
守護代の血統、名門長尾家、そんなものをありがたがるほど、この男は名前に価値を見出さない。自らの足で歩み、時代を存分に感じてきたから。
たかが守護、守護代、景虎もまたそう思う。
戦歴長き国衆らも当然、そう思っているだろう。腹の底では。
そんな彼らを従える方法は、直接屈服させるしかないだろう。
「……ほぼ、春日山の戦力だけで、勝ったと言うのか」
援軍に馳せ参じた宇佐美定満は呆然とつぶやく。雪解けを待ち、状況を精査し、人を集めて坂戸城までやって来た。何の抵抗もなく坂戸城にまで届いてしまった。その理由は景虎が相手の仕掛けと同時に喧嘩を買い、雪深き戦場を動き回り、その全てに勝利してきたからに他ならない。
黒田秀忠討伐の際に見せた即断即決からの速攻。誰もが雪が降り積もる中、兵を動かそうと考えない。考えたとしても、やりたくない、やらせたくない、その考えが足を止めさせる。どうせ、雪解けまではまともに動かない。ならば最低限しっかり守りを固め、春を待つ。そこからが勝負になるだろう。
守護代行としての権利をどこまで使うか、どう言った内容の御触れを出し、諸侯へ呼びかけるだろうか。諸侯はその内容から国主を吟味しようとしていた。
逆に長尾政景は、雪解けまで待ってじっくり時間をかける景虎を弱気で、実行力に欠ける国主だと罵倒する狙いがあった。数か月、何もしなかったことをあげつらい、相応しくないと皆に知らしめるための十二月、年末の仕掛けであったのだ。
だが、
「……我らの力など借りずとも、勝てる、か」
長尾景虎は雪解けを待つどころか一月頭には動き出していた。この雪深き越後の地で、悪路を自らが先導し踏破させ、士気を損ねることなく勝利を重ねた。
各所で敵を叩きのめし、城へ押し込んで次の戦場へ。食糧は敵を城へ押し込んだ後、その周辺から略奪する現地調達方式で転戦してのけた。
同じ国、されど景虎は彼らに言った。
『俺の敵となった不幸を呪え』
と。領民は領主の判断に従っただけ。彼らにどの陣営につくかどうかの判断を委ねられることはない。選択権など存在しない。
だから彼は不幸だと言った。そして全部毟り取り、戦場を駆け回る。
「これぞ毘沙門天の化身、長尾平三様だ!」
直江実綱は嬉々として戦勝の報せを各所に振り撒く。彼もまた景虎の速攻には面食らったものであるが、その狙いを知り、それを成し遂げたことを受け、より深き信仰心を刻み込んだ。無敵過ぎる、冷徹過ぎる。
まさに戦うためだけに生まれた男。同じ国だろうが、選択権が無かろうが、敵に対しては平等に争いを振り撒き、奪い尽くす。
天災の片鱗、現人神を騙る男の底は、まだ見えない。
○
雪深き世界で繰り広げられた地獄絵図。その報せを聞き、長尾政景は愕然と崩れ落ちる。同じ国の、越後の民である。他国の侵略でもないのに、容赦なく彼らは奪い尽くした。何人戦死したか、何人餓死したか、何人凍死したか。
甚大極まる被害に政景は知る。
あの男は本当に、心底、この国を治める気など無いのだと。あるのは敵か味方か、それだけである。その後の、民草の心情など知ったことではない。戦に勝つことだけが全て、その後どうなろうが知ったことではない。
仕掛けたのは確かに政景である。ただ、同じ国相手にここまでやるとは誰も思わない。想定しない。雪が深ければ行軍は難しい。補給もままならない。
それが普通であろうに。
それなのにあの男は兵を走らせ、民草から奪い、戦い抜いた。
しかも、
「ぶはははははは!」
城にも届くような大声で――笑いながら。
「綾、何なのだ、あれは?」
「……わかりませぬ」
綾は沈痛な面持ちで仲の良かった弟の成した『結果』を見つめる。父も兄も、性質は異なれど統治者であった。だが、あの弟だけが違う。
統治する気があれば、こんなことはしない。出来ない。
あれでは争いだけを振り撒く化け物であろう。先々の生産性すらも踏み潰し、全てを蹂躙するだけの存在。河川の氾濫などと同じもの。
人成らざる者による、天意のような――
○
雪解けを待たずに進軍し、上田長尾の備えを喰い破った。景虎方の戦勝報告、何処まで鵜呑みにすべきかは何とも言えないが、少なくとも勝勢なのは間違いない。ただし、相手は代替わりしたばかりの政景である。歴戦の猛者たちは雪の中で戦ったことも含め、政景の失態、上田長尾も落ちたものだ、と考えた。
ただ、一部の聡い者たちは――
「……さて、この難物をどう評価したものか」
直江実綱のばら撒いた情報を、確度の高いものだと判断し、考え込む。毘沙門堂に籠り、瞑想したことで毘沙門天の化身として――と言う部分はどうでもいい。大事なのは雪の中、補給もままならぬ状況で、どう戦い抜いたのか。
多くは彼の撒いた情報を盛ったものだと考えただろう。
だが、一部の者は察した。
これは盛った情報ではなく、むしろ無理やり辻褄を合わせたぼかした情報である、と。だから説得力に欠ける部分はあれど、それを埋めた時に見えてくるものは、戦慄を禁じ得ない『事実』である。為景とも、晴景とも違う。
まさに怪物、である。
○
天文二十年、八月某日。この日が長きに渡る三条長尾、上田長尾の明確な格付けの時となった。どっしりと構える長尾景虎の前に、武装を解除された長尾政景、隠居していた長尾房長が頭を垂れ、誓詞と共に許しを乞う。
「さて、越後全体がぬしらの処遇を気にかけておることであろうよ。この俺に楯突き、その結果どうなるのか、黒田が如き末路を辿るか、許されるか」
景虎は満面の笑みを二人に向ける。
「俺がここで許さば、俺を侮る者が出てくるだろう。必ず、次の反乱者が出て来る。俺としては面倒事を避け、さっさと上田衆全てを滅ぼすのが良いと思うのだ。ぬしらの首を並べ、それを絵巻として教訓とする。どうだ、ん?」
悪辣極まる考え方である。味方側にも顔をしかめる者がいるほどに。
坂戸城を完全に包囲し、趨勢が決した政景は自らの敗北を認め、許しを乞うた。それは己がためと言うよりも、一門のため、ひいては上田荘のため、である。
「御屋形様、どうか、どうかご助命を!」
「おお、姉上。姉上もとことんツイておらぬのぉ。ところで結婚生活はどうだ? よくしてもらっておるか? それ次第で決めようかの、許すか、否か」
姉、長尾綾へ変わらぬ笑顔を向ける景虎。かつては武芸を、自由で闊達な生き方を教えてくれた師であるが、その眼を見ればわかる。
あの姉は、春日山で死んだのだ。
今そこにいるのは――
「ここが第二の故郷です。どうか、我々をお許しください」
「……そうか」
一人の、武家の女である。結局誰もが、天命には逆らえなかった。いや、一人だけその全てに抗っている者はいるが――
「ならば許そう」
景虎はあっさりと、許すと言い切った。政景はもちろん、柿崎や斎藤、大熊らも驚愕する。ここまでの苛烈な戦い方を知っていれば、黒田の顛末を知る者であれば、上田長尾の行く末などわかりきっている、そう思っていたのだ。
それなのに景虎は、
「い、如何なる、条件でありましょうか?」
「何を言う、政景よ。俺とぬしは義兄弟であり、義理の叔父でもあるわけだ。いわば家族のようなもの。何も奪わぬよ。戦いは終わり、俺の勝ち。それだけぞ」
「……か、寛大なる処遇、感謝致しまする」
「そう畏まるな。ぶはは!」
景虎は政景から戦後、何も奪わなかった。対外的に見れば甘過ぎる処遇であろう。手緩い、と見る者も少なくない。
ただ、その場にいる者には――
「これからも頼むぞ、政景よ。頼りにしておるからのぉ」
「は、はい」
「では撤収! きちんと帰るまでが戦ぞ!」
戦が終わった後の、その温さこそが恐ろしく映った。戦の時の貌と今の貌、それがまるで重ならなかったから。冷徹なる戦の怪物、勝つためならば何でもやる男と、あっさりと敵を無条件で許す男。その差が、怖い。
「政景」
「な、何でしょうか?」
「機会があれば、またやろうや」
「……ッ⁉」
「ぶはは!」
晴れた日もあれば、雨の日もある。荒れることもあれば、凪ぐこともある。そこの切り替えが見えない。だから、恐ろしい。
天と同じように。
この日、長尾景虎は名門上田長尾を完全に屈服させ、越後統一を成し遂げる。三条、古志、上田、為景ですら完全には成し得なかった優劣を、確固たるものとした。
まだ、越後には荒れる要素はある。それは景虎も承知している。
だから彼は思うのだ。
一つずつ、きっちりと、潰して行こう、と。
その先で越後の武士、全員の心をへし折る。二度と歯向かう気など起きぬように。
今日はまず、その一歩目である。
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