第佰弐話:龍の本音

 春日山に長尾景虎が帰って来る。何だかんだと半年以上とそれなりに長い戦であったが、戻ってきた景虎は狩りから帰って来たかのような気楽さであった。むしろ周りの方が疲れているように見える。実際に散々彼が引きずり回したのだから、何の間違いでもないのだが。ただ、不思議と現場から不平不満は聞こえてこなかった。

「おかわり!」

「はいはい」

「む、御屋形様への敬意が足りぬの、文よ」

「申し訳ございませんでした、以後気を付けまする」

「ぶはは!」

 戦の前、そして帰った後、何かを切り替えるように景虎は飯を腹に詰め込む。こんもりと盛られた茶色の玄米と味噌汁、あとは梅干しがあれば文句はない。

「むむ! この梅干しはぬしの仕事か?」

「あ、はい」

「相変わらず梅干しだけは才能があるのぉ。大義である!」

「……狩りでも上だけど」

「何か言ったか? ん?」

「何も」

 これだけ長期で戦い続けてきたのだから、腹も空かしているだろうと想定していたが、想定をはるかに上回る消費量に台所では悲鳴が起きている。

 景虎だけならばいざ知らず、普段あまり色が太くない者までもが、彼に倣って無理やりかき込んでいたのだ。祝宴のはずが、これでは大食い大会である。

 まあ、景虎は酒も馬鹿みたいに飲むが。

「肉、肉、肉!」

「今、取りに行かせております。童のように箸で器を叩かないでください」

「おお、乳母と同じことを言いよるの。少し見ぬ内に老けたのではないか?」

「……」

 無言で景虎を睨む文、一触即発の雰囲気に何故か梅がおろおろしていた。

「甘粕殿、長い初陣であったな」

「本庄殿、留守居ご苦労様でございます」

 そんな大騒ぎをよそに、武士同士の会話に花が咲く。こちらは甘粕景持と本庄実乃の二人であった。越後では家柄も何もない甘粕と景虎方の中核を担う本庄、格の違いは大きいが、本庄実乃にそれを感じさせる雰囲気はない。

「雪の中での行軍は堪えたであろう」

「はい。信濃も雪深き土地でしたが、その中であれほど動き回ったことはございませんでした。どんな恨みつらみも雪には勝てぬと父も言うておりましたので」

「だが、御屋形様は雪にも勝った、か」

「はい。実に不思議な心地でした。歩くのも困難な雪上を、御屋形様はずんずん進んでいくのです。ついて来い、など何も言わずとも伝わるものがある。誰も不平不満を言わず、ただあの背を目指し駆ければ、勝利があった」

 甘粕景持は未だに夢心地であった。ただ歩くだけでも、進むだけでも困難な道のりを、ただ背中を目指し駆け抜けた。必死に喰らいついた。

 その結果が、大勝。

「御屋形様は本当にすさまじいです。敵の居場所を空の上から見ているかのように、正確に読み取って攻撃を仕掛けます。しかもやり口が恐ろしい。あえて人を逃がし、他の城へ連絡をさせ、他の城と連携しようと動き出したところを叩く。報せを聞き、連携を放棄して籠城を決め込む城は端から無視、無駄がないのです」

 妖術でもかけられているのかと思うほど、景虎の読みは完全に的中していた。気持ち良いほどの快勝、それが彼らの士気を保つ最高の薬であったのかもしれない。それだけ勝ち続ける軍の士気は凄まじい。少し前の武田軍同様に。

 甘粕は嬉々として語る。景虎の武勇伝を。

「……息子も同じことを言っておったよ」

「清七郎殿ですか。確か初陣と、あの――」

「そう、黒田征伐に同行した。今回は私が春日山の留守居を務めたため、栃尾の方を任せてきたが……おそらく、叶うことならば共に、と思っていたことだろう。御屋形様の背中は、どうにも居心地が良いらしい」

「はい!」

 嬉々として頷く甘粕の眼を見て、本庄は笑顔であったが少しばかりの不安もあった。息子も同様に、景虎と共に戦に赴いた者は皆、彼に惹かれる。強烈に、理屈も飛び越えて。今回、景虎のやり口は褒められたものではない。少なくとも同じ国の相手にやることではなかった。だが、彼らの中に疑問を持つ者は極端に少ない。

 全肯定してしまう、犠牲が目に入っていない。

 あの背中だけが焼き付いてしまう。それは恐ろしいことではないか、と本庄は思うのだ。今回息子を栃尾に縛り付けたのも、その懸念があったから。

 景虎が才人なのは、本庄も承知している。今回の件で、確信に変わった者は少なくないだろう。そうでない者もまだ、越後には何人もいるだろうが。徐々に傾きつつある。彼の力が、そうさせる。

「励みなさい。これから、様々な経験を積むことになるだろう」

「ご助言、ありがたく」

 若く、可能性に満ちた若武者。彼らにはより良き環境を与えてやりたい。自分たちの世代が苦難に満ちていた分、少しでも――

 本庄実乃はそう願う。

 そして、目の端に捉えた景色を見てため息をついた。若武者は見惚れさせたとて、経験豊富な者までそう出来るとは限らない。

 特に、一本気な正義漢ほど、そうなる。


     ○


「いい気分で飲んでおったのに……何用だ、朝秀よ」

 祝宴の輪から外れ、館の外で景虎の前に立つのは、大熊朝秀であった。そちら側には柿崎、斎藤らも並ぶ。祝いの人は思えぬ険しい顔つきで。

「今回の戦、上田長尾を許されるのであればあそこまで苛烈な行軍を強いる必要があったのでしょうか?」

「滅ぼせばよかった、と?」

「滅ぼさぬのであれば、雪解けを待ち守護代行の権利を持って方々に御触れを出し、討つ。それで済んだ話です。無駄な犠牲でした」

「柿崎、斎藤も同意見か?」

「はっ」

 声にて応じた柿崎と首肯で答えた斎藤。二人の眼にも迷いはない。

「俺が彼奴等を滅ぼすつもりで、だからこそ民草の犠牲を見逃した、か」

「国をまとめるために恐怖が、力を示す行為が必要なのはわかります。それに今回は、兄君のこともありますので、強くは申せませんでした」

「ぶは、それは気を遣わせてしまったのぉ」

 笑う景虎、その眼には申し訳なさなど微塵も浮かんでいない。

「政景はあれで優秀な男よ。戦の備えも、周囲への根回しも、仕掛け所もよかった。俺の顔に泥を塗る、その一点に関して、これ以上ない仕掛けであったと言えるだろう。だからこそ、読み切れたのだがのォ」

 それどころか、彼らがこうして提言に来ることすら、見据えていたかのように思える。月下も相まって、化生のようにも見える。

「だから許されたのですか?」

「そうさな。それも一因ではある、か」

「であれば他の理由をお教えいただきたい。民草の犠牲に見合う理由を」

「最大の理由を申すとな」

「はい」

「俺の気まぐれだ。ぶはははは!」

「……は?」

 三人が呆けてしまう。気まぐれ、考えてもいなかった。何か深謀遠慮があり、だからこそあれだけの攻めをしたのだと、そう思っていたから。

「許しても許さなくても、どちらでもよかった。うむ、そうだな。黒田の時は許す気になれなかったが、今回はそこまで揺れなかった。兄上の件も、政景がやらずとも誰かがやっただろう。善意、悪意問わず、もしかすれば俺がやったかもしれん。この俺が権力に拘泥することがあるとも思えぬが、そうなれば必ずやる」

 だから、どちらでもよかった。

「で、であれば何故――」

「勝負は勝ってこそ、だ。勝つためにやった。雪解けを待つのはつまらんしな。そも待った時点で俺の顔に泥を塗る政景の目的は達成されるのであれば、負けだ。そこから捲ったとして、誰が俺の勝ちだと思う? それはありえぬよ。売られた喧嘩は全部買う。買って、勝つ。俺は負けず嫌いなのだ」

 勝つためだけに、やった。景虎らしい答えなのかもしれない。勝つまでが重要で、勝った先の事などどうでもいい。

「民草のことは――」

「知るか。それを誰よりも考える者をこの国が下ろしたのだ。長尾晴景を下ろしたのは誰だ? この俺を国主に据えたのは、誰だ? 悪いがな、朝秀。俺はこの国が、武士が、死ぬほど嫌いなのだ。そこに頭を抑えられておる百姓も、権威に胡坐をかく寺社も、公家も、朝廷も、帝すらも、俺はな、大嫌いなのだ!」

 不浄なる者を見る眼。心底、彼の眼は嫌悪している。

 この世界を。

「俺を下ろしたくば、俺を討ち取れ。力で来い!」

「……御屋形、様」

「その呼び名も好かぬ。俺は長尾景虎だ。何が御屋形様だ、平三だ、馬鹿らしい! 呼び名が二つも三つもある意味が分からぬ!」

 彼は今、自らをさらけ出すことで彼らに示した。ずっと怒りを蓄えてきたのだと。溜まり、膨れ、いつ破裂してもおかしくはないのだと。

 そうされたくなければ、剣を持て。反旗を翻し、己を討て。

「その腰の太刀は飾りか、柿崎、斎藤よ。丸腰の俺相手なら、討てぬ道理はない。自信がないなら朝秀に渡せ。その男ならば確実に俺より強い」

「……!」

「そのようなことは出来ぬと、斎藤は申しております。某もまた同じ考え。御屋形様は越後守護代行、この国を治める御方なのです。刃など、向けられませぬ」

「治める気が無くとも、か?」

「それは……」

 答えに窮する柿崎を見て、景虎は鼻を鳴らす。ここで刃の一つでも抜かれたのであれば、少しは楽しくなるかと思ったが、どうやらそんなことは起きぬようであった。大熊に呼び出された時は何かあるか、と思ったものであったが。

「つまらぬなァ」

 話は終わりとばかりに、景虎は三人に背を向ける。その顔は心底つまらなそうで、欠伸でも噛み殺していそうな表情であった。

 少し歩き、

「ぬしは盗み聞きが趣味なのか?」

「いいえ。御屋形様の身を案ずればこそ、です」

「ぬしも御屋形様、か」

「御望みであれば、景虎様とお呼びいたしますよ。全ての上に立たれるお方が、くだらぬ風習に阿る必要はありますまい。無駄です」

「ぶは、よりにもよってぬしが、か」

「ええ。よりにもよって私が、景虎様の理解者なのです」

「……ぬしは御屋形様と呼べ。気色悪い」

「仰せのままに」

 あの三人だからこそ吐露したが、ある意味で一番聞かれたくない男に聞かれ、あの三人には響かなかったものが、この男には響いていた。

 その眼には、確信が宿る。

「あの三名、如何致しましょうか?」

「手を出せば、俺がぬしを殺す。覚えておけ」

「刻んでおきます」

 今日もまた終わりはなかった。まだ生き永らえ、暴れろと天は言う。己がこの座にいると言うことは、そういうことなのだと景虎は思う。

 宴席に戻り、景虎はどさりと座り込む。

 すると、

「はい」

 文が酒を注ぎに来た。

「……まさか聞いておったのではないだろうな?」

「大熊殿の顔色と御屋形様の顔つきを見て、先の戦の報せを照らし合わせ、読ませて頂きました。ご機嫌斜めと存じますが?」

「ふん。なみなみ注げ」

「今日ぐらいは従いましょう。明日からは控えて頂きますが」

「……ぬしら親子はあれだな、変人だな」

「父と同じにしないでください」

「ぶはっ、確かに」

 文から注がれた酒に満たされた木杯を一気にあおる景虎。

 そして、

「おかわり」

「駄目です」

「へ?」

 今日は終わりと言い渡され、愕然とする。そんな二人の姿を梅は見つめ、少し表情を陰らせる。自分が他所との繋がりを得たように、彼もまたそうであったのだと知った。当たり前のことなのだが、そんな当たり前が、少し刺さる。

 そんな夜が、過ぎていく。


     ○


 天文二十年夏季某日。

「殿、甲斐武田より、使者が来ております」

「武田? 何用だ?」

「その、口頭で伝えたいと。奥に通しておりますがよろしかったでしょうか?」

「ああ」

 大熊朝秀の下に甲斐武田よりの使者がやって来る。武田は今、信濃で猛威を振るっている存在であり、春先には調略にて信濃の猛将村上義清が守りの要、砥石城を奪い取ったと伝え聞いていた。現在、越後とは敵でも味方でもないが――

(御屋形様と高梨殿には血縁がある。侵攻が進めばいずれは――)

 場合によっては刀を抜くことも辞さぬ、その心構えで使者の待つ部屋に向かう。

 そして、

「お待たせ致した」

「おう。随分待ったぞ」

(使者にしては態度が……それにこの佇まい。何者だ、この男)

 大熊朝秀は出会う。

「信濃はもう、手がかからなくてな。とりあえず先々の敵情視察に来た」

「……名を聞かせて頂こうか」

「甲斐武田守護、武田太郎だ」

「……ッ⁉」

 僧の格好をした甲斐守護、武田太郎晴信、と。

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