第玖拾壱話:消えぬもの

 傷だらけの虎は今、家臣らに押し込められ、甲府にある『嶋の湯』で傷を癒していた。大敗、客観的に見れば損耗は五分に近いが、それも甘利ら殿のおかげである。彼がいなければ、この傷はどれほど深きものとなっていたことか――

 態勢を立て直し、二十日間ほど陣を敷き追撃に備えたが、村上方はそれ以上追ってはこなかった。彼らも傷を負い、余裕がなかったのはある。

 だが、晴信にはわかる。あれは負けを認めよ、という言外の行動であったのだ、と。攻め寄せてきた側が、迎え撃つ備えをすること自体が滑稽であったことだろう。家臣らは何も言わなかったが、考えれば考えるほどに無様であった。

 その時、手当が杜撰であったせいで、長期の湯治をさせられる羽目になったのだ。あの混戦の撤退戦で、刻み込まれた二か所の傷。

 大した傷ではない。少し化膿していたが、今は良くなった。

 しかし、ずっと疼き続けている。

「俺は何故、負けた?」

 勝ち続けてきた。父を越えたと思った。あの日の確信が、するりと手のひらから零れ落ち、気付けば消え去っていた。

 諏訪を潰し、守護の助力を受けた高遠も、関東管領も破って来た。

 もう、信濃で負けることはない。そう思ったから今川と北条に貸しを作り、後顧の憂いを断ったというのに、これでは何の意味もない。

「甘利は何故、俺を救った?」

 甘利、板垣は父の代からの重臣であった。父を追放する際、彼らに助力を求めた時、正直断られると思っていたし、それを前提で動いていた。彼らは父を裏切らない。裏切れない。そう思っていたのに――

『御屋形様を、ですか。理由は如何に?』

『先年の台風による大飢饉、それによって民草の不満が溜まっておる。ここらで一つ、当主を挿げ替え不満を抜いておくべき、と考えた次第』

『なるほど』

 正論ではあった。だが、それで彼らが納得するとも思っていなかった。彼らは父と子の不仲を知っている。それが混乱に乗じた力業であることは誰の目にも明らかだった。そして、当時の晴信はそれを隠そうともしなかった。

 それなのに彼らは――

『承知した。助力いたす』

『……?』

 二つ返事で受け入れた。彼らのような信頼深き重臣が動いてくれたからこそ、比較的混乱も少なく政権が移行した面は間違いなくあったのだ。

 だが、

「……わからない」

 晴信にはわからない。何故あの時二人が味方になってくれたのか、が。今思えばあの二人が動いてくれたこと、信虎が大人しく当主の座を明け渡したこと、全部己の力だと思っていたことが、違うように思えてきた。

 積み上げてきた全てが、ぐらぐらと揺れる。

 何故負けたのか、何故何故何故何故何故――

 気づけば晴信は、

「……く、くく、どれだけ無様なんだ、俺は」

 湿気った髪をかきむしりながら――筆を取っていた。


     ○


 その文は、丁度今川館で乱痴気騒ぎをしている最中、届けられた。

「義父上、どちらからの便りですかな?」

「……ふん」

「なるほど、太郎殿ですか」

 今川義元は悪戯っぽく微笑み、無人斎道有こと信虎は鼻を鳴らす。

「まずは一皮、と言う所ですかな」

「俺なら死んでもこんなものは送らぬわ。全く、どうしようもない奴だ。やはり次郎にすべきであったな、後継者は」

「誰ぞ、筆と墨を用意せよ」

「要らん!」

「またまた、そうおっしゃらず。館に戻られた後に書くも、ここで書くも同じことでしょうに。質の良い紙を用意させますぞ」

 ここぞとばかりに煽り倒すのは、この男に普段翻弄されているからに他ならない。この男の豪遊で今川もいくら使わされたことか。

 と言いつつも、彼が家中で「御舅殿」と親しまれているのは豪放磊落な人柄ゆえ。最後の一線、彼は嫌われぬのだろう。

「随分余裕だな、彦五郎よ。岡崎城を奪われ、松平めが奴らに下った。雪斎のジジイが征伐に向かったと言うが、結果次第では家も揺れように」

「ああ、その件ですか……些事ですな」

 あっさりと、織田との一戦を些事と言い切る今川義元。その顔に虚勢はない。本気で思っているのだ、些事であると、大したことではない、と。

「斎藤氏との敗戦によって、織田氏の勢いは陰りました。それを取り戻すために岡崎城を落としたのでしょうが、悪い時に藻掻いてもより深く水底に沈むだけ。残念ながら彼はもう、終わった男。この戦の結果も見え透いています」

「当主不在でも勝つ、か」

「雪斎がおれば、私のあるなしはさほど重要ではありません。要はやるべきことをやるだけでいいのですから……違いますかな?」

「……さてな」

 そう言いつつも、北条との戦いでは自らが出た。つまり、それが必要であったと言うこと。逆に言えば、今回のように丸投げしてしまえるということは、彼にとってさほど大きな意味を持つ戦いではない、と言うことなのだろう。

 改めて思う。客観的な視点から見れば、かつて後れを取った織田氏との決戦なのだろうが、大局を俯瞰する者にとっては大した戦ではない、と来た。

 信虎をして、果たしてこの男の深さ、広さに敵うかどうか。

「岡崎城はどうする?」

「戦に勝てば松平殿はこちらに戻って来るでしょうから、彼に任せますよ」

「また取られるぞ」

「でしょうね。なので、一計を案じておる所です」

「一計?」

「ふふ、いくら義父上とは言え、それは口が裂けても言えませぬ」

 笑顔揺らがぬ義元を見て、信虎は顔をしかめる。この男は温和で穏やかな見た目に映るが、そもそもの成り立ちからして血生臭い。父の死、そして後継者であった兄『彦五郎』の死、それが同日に行われた結果、彼が当主となった。

 彼は父から当主を、兄から通称を奪い取った男なのだ。

「で、文にはどう返されるのですか?」

「煩い。あっち行け」

 今回もおそらく、それなりの手を使うのだろう。まだ若き松平の当主が、突然死んでも信虎は驚かない。この男なら、やる。

 偶然を装い、全部を手に入れるのがこの男のやり口なのだから。


     ○


 武田の敗戦はこんなところにも波及していた。

 山内上杉家中では先年敗れた相手が、自分たちの助力なしの村上氏に敗れ去った事実に揺れていた。ただでさえ、河越夜戦を取り戻そうと武田に仕掛け、敗れ、恥をかいたと言うのに、今度はその武田が敗れてしまったのだ。

 長野業正は各所を奔走するも、離反する家が止まらない。時代は北条なのだと言わんばかりに、昨日まで共に余所者を追い出そうとしていた者たちが、彼らに迎合していく様は何とも言えぬ世の無常を表していた。

 もう、山内上杉は厳しいのだろう。

 扇谷上杉も若き当主を失い、次を用意出来ずほぼ潰れたも同然。古河公方も北条の力業によってほとんど息をしていない。

 早めに連合軍に見切りをつけた里見らは元気に下総の千葉を攻めたりしたが、結局それも北条が待ったをかけ、勢いを減じるどころか強めている始末。

 誰も彼らを止められない。

 少なくとも関東に、その力を持つ者はいないのかもしれない。

「板鼻も、人が減りましたな」

 上泉秀綱は寂しげに街並みを眺めていた。日に日に、賑わいを失っていく様は寂しいものである。凋落が眼に見えるのだから。

「……賑わいもな」

 人がどんどん去っていく。力があるからこそ人がそれに集まり、賑わい、栄えるのだ。力を失えば、こんなものなのかもしれない。

「次はどちらへ?」

「……千葉采女のところだ」

「あの家は、もう――」

「それでも一応縁者と喧伝していた手前、な」

 長野業正はため息をつきながら、目的地へ向かう。

 全てを失い、がらんどうとなった男たちの下へ。


     ○


「長野殿、わざわざ申し訳ない」

 萎え、痩せ、老いた男、千葉采女の姿を見て、長野業正は沈痛な面持ちとなる。ここ数年でぐっと老け込んだ。息子の一人を北条に殺されたまでは覇気もあり、敵意に満ちていたが、他の息子も、不幸にも嫁いでいった娘らも多くが死んでしまった。こうなってしまうのも仕方がない。それはわかっているのだが――

「屋敷は不便ないか?」

「ええ。もちろんです。全て、長野殿のおかげ。あとは――」

「……梅殿、か」

「はい。あの家の家人が残ってくれておりますので、何とか見栄えだけは整えられております。まあ、それもいつまでかは、わかりませぬが」

「……彼女は?」

「奥で、いつものように臥せっております。何を言っても言葉を発さず、再会してから一度もあれの声を聞いてはおりませぬ」

「そうか」

 名門の男児を産んだ彼女を、誰もが祝福していた。それから一年もしない内に、全てが奪われてしまったのだから涙も出まい。

 しかも目の前で――

「別の家から引き合いはないのか?」

「ありがたいことにお声掛け頂いてはいるのですが、何分――」

 奥の部屋に、一人佇む少女の姿に長野は目を細める。言葉一つ発さず、視線は虚ろに漂うばかり。だが、その美しさは、皮肉にも不幸を経てさらに――

「このような状況でして」

「そうか。まだ若い。いくらでもやり直しは利くだろう。其の方もまだまだやれる歳なのだ。山内上杉のため、頼りにしておるぞ」

「勿体無きお言葉です、はい」

 励ますも、力はない。彼もまた心が折れ、彼女同様立てぬようになってしまったのだろう。それもまた仕方がない。希望が見えぬのだ。

 状況は悪くなるばかり。北条が改めて足場を固め、板鼻攻略に乗り出せばおそらく勝つことは出来ないだろう。そもそも、戦いにすらなるかどうか。

 勝ち馬に乗る者は、今でも後を絶たないと言うのに。

「ではな、また来るぞ」

「お待ちしております」

 訪れる意味はない。対外的にせざるを得ないだけ。折れた者を見ていると、自らの心も萎え、折れてしまいそうになる。

 希望が欲しい。微かでも、光明があれば――


     ○


 幾度、一人の夜を過ごしただろうか。子を成し、皆に褒められ、新しい居場所にも慣れてきた。最初は色々大変だったが、それでもここで生きてもいい、と思っていたのだ。子どもの頃の夢はとうに色褪せ、掠れ、消えかけていた。

 武士の女として生きてきた。

 だけど夫を失い、子を失い、全てをなくして思う。

「…………」

 還りたい、と。あの頃に還って、家族に囲まれて暮らしたい。狩りに出かけて、泥だらけになって家に帰り、父や兄たちに怒られる。拗ねた自分を母や姉が慰めてくれて、あの森で愚痴を言い合うのだ。男はこれだから、とか他愛もないことを。

 そんな思い出ばかりを、浮かべ、逃避する。

 苦しいのは、そんな幸せな思い出すら年々思い返せなくなり、今この瞬間にも零れ、抜けていくことであった。忘れたくないのに、風化して色褪せていくのが止められない。思い出の中に浸り続けることを、記憶が許してくれない。

「……ふふ」

 記憶すら、失うのか、と彼女は嗤う。

 いっそ、死んでしまった方が――そんな考えが過ぎる。悪くない選択肢だと思った。死ねば母に、姉に、兄たちにも会える。息子にも、夫にも会えるだろう。

 それはとても幸せなことだと思った。

 だが――

『その阿呆さ、どうにも虫唾が走る』

 死ぬことを浮かべたら、あの記憶を思い出してしまった。自分の獲物に対して難癖をつけてきた女装男。偉そうで、生意気で、腹が立った。

 その上、殺そうとしてきたのだ。

 今なら、願ったり叶ったりなのだが――

『うつけが。これは俺の寛容さだ。他言無用、公で俺の正体をバラさば、俺はぬしを斬る。必ず、絶対に……今、そう決めた』

 彼の名を、存在をバラせば、彼が殺しに来てくれる。そんな夢みたいな、間抜けな考えに彼女は微笑んだ。今日は彼との思い出に浸ろう。

 逃避先とするには少々、

『ぶはは、見抜けぬ馬鹿が悪い』

『あの兎も俺の獲物だ』

『俺は客だぞ。ぬしが用意せよ』

 色々と性格に難のある男だったが。思い出す度に腹立たしく思う。綺麗な顔立ちをしているのに、中身は残念極まる傍若無人っぷりだった。

 だけど、

『美味いのお』

 裏表がなくて、居心地が良かったことを覚えている。

 しかも、

『……ああ。俺もな、マタギになりたかった』

 夢も同じだったのだ。彼の場合は、

『おうよ。ただ、別にそれだけではないぞ。僧籍に入り、琵琶を担いで旅をしても良かったし、碁も相当達者になったからな、賭け碁で生計を立てるのも悪くない。剣豪は、まあ、先日夢破れたばかりだが。とにかく何でもよかった』

『武士以外であれば何でも』

 随分夢多く、呆気にとられたことを覚えていた。

 そして、

『……所詮夢は、夢でしかないがの』

 同じ結論に達していたことも、覚えている。

 思い出せば溢れ返る。短い間だったのに、ほんの少しの邂逅でしかなかったのに、こんなにも印象深く、強烈に刻み込まれていた。

 だから、あの時の自分は彼を連れて行ったのだろう。自分の大事な場所へ。深淵の中、星空が落ちてくるような景色を見せたくなった。

 あの時の自分は自慢だと言ったが、本当の所はどうであったのだろうか――

「……思い出せない」

 当時の気持ちは、掠れ、摩耗し、手の中から零れ落ちていた。絶対に忘れない。そう刻み込んだはずなのに、それだけが消えてなくなっていた。

 言葉は思い出せる。景色も思い出せる。

 なのに、

『……美しいのぉ』

『ふは、世の全てが俺よりも不細工なのだ。仕方なかろう』

『それにしても、行き遅れを望むか。本当に、くく、心底妙な女だな、ぬしは』

 わからなくなる。これが大事な思い出だったのか。あの時の自分はどんな思いで隣に立っていたのか。何も、思い出せない。

 それが怖い。気を抜くと耳の奥から「勝った勝った」と聞こえてくる。赤子の泣き声が、それが止まった瞬間が、脳裏に浮かぶのだ。

 槍の穂先に掲げられた、夫の姿もまた――

「う、おえ」

 彼女は胃液を溢す。毎日、まともに食事がとれていない。落ち着いてきたと思ったら、全てを失った時の記憶が表に出てしまうから。

 そして全部、吐き出すのだ。

『だが、不思議と心地よい。ぬしが行き遅れ、されど夢破れマタギに成れなかった時は、この俺が貰ってやろう。約束だ』

 約束、一方的で、何の力もないただの言葉。

『なっ、こ、この俺が、クソ田舎の名ばかり武家の娘を貰ってやろうと言うのに、なんたる無礼か。知らんぞ、ぬしは今千載一遇の機会を失ったのだ』

 あれで武家ですらなかったら笑ってしまう。自分は名門に嫁いだぞ、と言ったら彼はどんな顔をするだろうか。笑うか、それとも――

『じゃあ、マタギに成れなかったら嫁いであげる』

「……あ」

 ふと、思い出す。あの時、自分がどう思っていたのかを。直視せずに、軽く口に出した言葉だった。だけど、それは、その時の感情は――

「あ、ぐ、ああ」

 思い出して、辛くなった。

「……虎千代」

 藁にでも縋る想い。それがもう一つのことを、思い出させる。

『俺からは手紙だ。ただし、今のぬしに宛てたものではない。八方塞がり、如何ともならぬ状況に立たされた時、これを開くがよい。多少の役に立つ』

 ずっと手放さなかった。あれからずっと、お守りのようにそれを携え、お嫁に行った時も、城から逃げ出した時も、しかと封をしたまま、母の形見である化粧箱の中に、奥にしまっていたのを思い出した。

 一度も封を解くことなく、忘れ去られるだけだった、思い出を。

 それに今、彼女は手を伸ばす。

『それを開くことなく、平穏無事に生きることを願う』

 封を解く。耐えられなかった。どんなくだらないことでもいい。他愛ない子どもの、冗談でさえ今ならば笑える。そんなものでいい。

 ただ、何でもいいから――

「助けて」

 思い出でもいいから、傍にいて欲しかっただけ。

 それだけだったのに、

「……え?」

 そこに刻まれた文字に、千葉梅は息を呑む。


     ○


 長野業正の下へ、千葉采女が駆け込んできたのはその翌朝であった。彼の血走った目を見て、それが尋常ならざる状況であることを見た長野は彼を館に招いた。

 そして実際に、

「越後、長尾家」

「そ、そのようでして。昨夜、娘が自分に宛てられた手紙を開いたそうで、それがこちらになります。信じ難い、話ですが」

「……男、しかも、くく、あの、四男の方か!」

 突如、大笑いする長野業正。その貌には狂気があった。あるかもしれない。か細い橋だが、山内上杉を繋げる道が。己たちの活路が。

「上泉の!」

 こちらの館にいて、同席していた上泉秀綱もまた苦笑を禁じ得ない。

「……何でしょうか?」

「気づいておったな?」

「男児、と言うことは。しかし、まさか三条長尾、あの為景の息子とは、思ってもおりませんでした。何たる奇縁」

「まことな。く、ははは、そうか、そうか、あの子が、くだんの長尾景虎、と言うわけか。どう見る? 上泉の」

「……拙者にわかるのは、武芸の腕前のみ。そこに関して言えば、間違いなく特上、でしょう。あの子ならば、噂も信じられます」

「長尾の諸家を潰し、春日山を奪おうとした黒田一門も葬った。しかも今、実の兄と当主の座を巡り、国を割っている男が、まさか、なァ」

 為景の子が悠々と山内上杉の領内に入り込み、散策していた事実は笑うに笑えない、が、今の状況においてこの縁、大局を左右しかねないものであった。

「越後、越後、か。この前は袖にされたが、果たしてこの文、どれだけの効力があるものか。どちらにせよ、彼が当主とならねば意味はない、が――」

 今すぐに使えるものではない。少なくとも彼が当主となって初めて、この文は意味のあるものとなる。だが、逆に言えば当主になり、この文が、この約束が彼にとって重たいものであるならば、これ以上ない効力を発揮するだろう。

 山内上杉に、あの連合軍に足りなかった最大の要因。

 先頭に立つ傑物の不在。これが解消される可能性がある。まだ、彼がそうなのかはわからない。わからないが噂を信ずるならば、足る者であろう。

 初陣より負けなし。兄が奪われた春日山を独力で奪い返し、そこからの凄絶な、血生臭いやり口は、関東ですら未だに語り草となっている。

「娘は何と?」

「過去のことゆえ、役に立つかはわかりませぬが、もしお役に立つようであれば、と。あれにしては珍しく、その、前向きでして」

「……素晴らしい」

 可能性はある。充分、在り得る。長野が聞くところによれば、優勢なのは景虎の方であるらしい。有力者がこぞって彼を推していると聞いた。

「この奇縁、使わせてもらうぞ、千葉よ」

「はっ」

「喜べ。千葉の娘が、北条を刺すかもしれぬぞ」

「……ま、まさか」

「何事も、使いよう、と言うわけだ」

 千葉采女の顔が、長野業正の顔が、喜色に歪む。甘酸っぱい幼子の約束、されど今、それが政治に用いられようとしている。遥か時を越えて――

 彼が手紙にしたためた文言は、

『越後守護代、長尾信濃守為景が四男、長尾虎千代が結ぶ。其の方が如何なる状況であれ、望むのであればこの虎千代、其の方を貰い受け、守ることをここに誓わん』

 短く、力強い筆跡で、そう刻まれていた。

 言葉は消える。思い出も消える。

 されど、文書は消えぬ。そこに在る限り、いつまでも残り続けるのだ。

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