第玖拾話:上田原の戦い

 信濃はこの時代、混迷を極めていた。様々な勢力がそれぞれの大義を掲げ、衝突していたのだ。守護、小笠原氏と対立しつつ勢力を拡大した村上氏が当主、村上義清もまたその乱れによって領地を拡大した名族であった。

 この混乱は、混迷極まる状況は、力ある彼の一門にとっては望むところ。だからこそ、信虎時代は彼らと轡を共にしたこともある。

 その結果が、今――

「……某のせい、であるな」

「そのようなことは」

「先代には分別があった。それゆえ、悪いようにはならぬと思っていた。無論、隙あらば取って喰われるくらいの覚悟はあったが、な」

 空気が、澱む。家臣らは知っている。この男の力を。武田も知っているはず。だが、彼らは知らない。敵として立つ、この男の怖さを。

 信濃最強、それに何の意味があると男は言う。

「流れは変わらかもしれん。だが、傷一つ負わさぬままでは、信濃武士の名折れよ。多少、粘らせてもらうぞ、武田の」

 男は誇らない。この時代、自らよりも上に立つ者を知っているから。あの大虎と己では格が違った。時代のズレが、彼に謙虚さを授けていたのだ。

 大局では敵わぬ。それは息子に対しても同じ。されど、

「さて――」

 局地戦で敵わぬと思った相手は、未だ皆無。

 地図を眺め、戦場に没入する怪物を見て、家臣らは微笑む。


     ○


 天文十七年(1548年)二月、侵略の手を緩めぬ武田晴信は北上し、村上氏の居城がある葛尾城の南、産川を挟んで陣を敷く。先年、関東管領軍を打ち破り乗りに乗っている武田軍はもはや信濃で負ける気などしなかった。

 特に若き当主は、自らの手腕に絶対の確信を抱いていた。

「典厩殿、おられるか?」

「おお、板垣殿に甘利殿、どうされたか?」

 典厩、武田信繁の仮名を呼ぶは武田家宿老して『両職』、板垣信方と甘利虎泰であった。信虎時代から活躍していた二人であり、信虎色を嫌う晴信であったが彼らに関しては別腹、と軍の最高位に据えるほど、信頼された二人である。

「いえ、先代から、何か便りがあったか、と思いまして」

「……ありましたが、その――」

 板垣の問いかけに困り顔となる信繁。その理由は以前送った文の返しにあった。その内容を二人に伝えると、彼らも同じ顔つきとなる。

「……要人は後方に構え、阿呆は好きにやらせよ、ですか」

「これは、また……露骨な」

 板垣、甘利はため息をつく。先代、武田信虎はあまり状況を芳しく思っていないようで、何となく嫌な予感がしていた自分たちに下がれと言っていた。裏を返せば突出する当主を見捨てろ、と言っているようなもの。

「如何に先代のお言葉とは言え、飲めませぬな」

「てっきり名案が頂けるものかと思っていましたが、さすがにそこまで甘くない。そういう御方であることをすっかり忘れておりました」

「……父上がこう言っているということは、おそらく兄上は死なぬと思っているのでしょう。そうでなければ私に止めよ、とおっしゃられるはずですので」

 信繁は文から父の兄に対する信頼を汲み取る。父は常々、己にだけ言っていた。晴信は自分に似過ぎている。似なくて良いところまで似ているゆえに、賢く優秀で似ていない己が肝要なのだと、二人なら安泰だと言っていた。

 兄はその様子を遠くから嫉妬の眼で見ていたが、弟からすればむしろ父と兄の繋がりを目の当たりにし、そこから外れた己に疎外感を覚えたものである。

「なるほど」

「であれば私が心行くまで先駆けを務めるまで」

「板垣殿が、ですか? 私はてっきり信濃から下った真田氏が務めるものかと。本人も息巻いておりましたので」

「御屋形様が否と申されたのです。この戦は信濃攻略の総仕上げ、武田の力を示すのに負け犬では不足、と」

「……真田殿は猛将、不足などありえぬでしょうに。海野平の戦いで兄もそれを知っているはず。それなのに――」

 ここでも見え隠れする父に対する歪み。海野平での一戦は父信虎の武功である。晴信も参戦していたが、あくまで彼の補佐であった。もう一人の主役は共に轡を並べた村上義清、今回の相手である。父と協調した相手、それを下すのに余所者の力は借りぬ、とあえて『両職』の板垣を出すのだろう。

 決して悪い選択ではない。確かに真田は元信濃勢、村上から旧領を取り戻したい思惑があるはず、とは言え完全に信頼できるかと言えば日が浅すぎる。

 大戦の先駆けを託すには、少し不安があるのも事実。

「私が勝利をもぎ取ればよいだけの話。驕り高ぶるは若者の特権、勢いに乗って羽ばたくもまたその無謀さあってこそ。悪いことばかりではありませぬ」

「……なれば、私も若者ゆえ、先陣を援護いたしましょう」

 二人は信繁の言葉に目を見開いた。


     ○


 信繁が板垣と共に先駆けを願い出たことに、晴信は多少難色を示しながらも断る理由もないため。結局弟に押し切られてしまった。真田幸綱を板垣信方の脇備に推挙し、彼の願いも一部受け入れる羽目となった。

 まあ、そちらの方が後々を考えればよかっただろう。先陣を任せるには不安要素もあったが、何もさせぬとあっては真田にも不満は溜まろう。信繁の弁は正論であり、晴信も苦笑いしながら「ぬしには勝てぬ」と器を示す。

 これで勝てば全て丸く収まる。

「さあて、大一番だ。信濃の雄、村上よ。今の武田に隙があるなら、突いてみよ!」

 自信があった。勝つ確信が、在った。

 誰に今の武田が止められる。あの関東管領軍すら粉砕した軍勢である。対する相手方は見たところ五千程度。こちらの八千を鑑みれば負ける要素を探す方が難しかった。戦力で勝り、人材でも勝る。なら、勝利は必然。

 見通しの良い地形である。紛れもない。

 実力差が、そのまま勝敗を分かつ。

「進め、信濃を手に入れるぞ!」

「おうッ!」

 守護、小笠原よりも村上の方が厄介。これはもう公然の事実である。ここで村上を討てば大局は決するのだ。それゆえの大一番。

 勝てば信濃取り、負ければ――


     ○


 まずは板垣率いる部隊が村上方と衝突する。この時点で先陣を務める板垣は勝利を確信した。関東管領軍と当たった時と同じ、それ以上の手応えの無さ。あの一戦でさらに兵たちが自信を付けたのか、恐ろしいほどあっさりと敵軍を突破する。他の部隊はそれなりに苦戦しているのかもしれないが、どう見てもどの部隊も優勢。すでに士気は低く、抗戦する力もないと見る。

「真田殿、如何思われる?」

「……少し手応えが浅過ぎる気もしますが、状況を鑑みれば致し方ないことかと。関東管領軍を打ち破った武田軍が相手ですので」

「……押す、か」

 足並みをそろえるのも手だが、戦において勢いと言うのは馬鹿に出来ない。足を止めるのは勢いを殺すに等しく、相手に一呼吸与えることにもなる。

 迅速なる用兵こそが戦術の原理原則。

「進むぞ!」

「応ッ!」

 力押し。今の武田軍ならばこれが正解だ、と板垣は判断した。


     ○


「そうだ、それでいい。無駄に時を与える必要はない。俺たちの勢いは誰にも止められん。一気呵成に圧し潰し、勝利をもぎ取れ、板垣よ!」

 突き進む板垣の背に武田晴信は満足していた。さすがは板垣、こちらの意図通り動いてくれる。関東管領軍との戦いも、彼が率いる部隊の勢いと、伏していた甘利の連携が勝負を決めた。今回も彼に任せて間違いなかった、と言える。

 信繁らも優勢に戦を進めている様子。勝利は目前である。

「信濃の次は、越後だ。ようやく、俺たち武田は海を手に入れるんだ。もう、足元など見させん。俺たちが主導権を握る。戦も、商売も、何もかもを!」

 貧しき甲斐の土地。それに縛り付けられていた甲斐の守護、武田家。信濃を得て、越後を得れば豊かではなくとも海を得ることが出来る。そこから越中などに手を伸ばせばいい。欲は尽きない。何処までも。

「勝った!」

 武田晴信は勝利を確信する。


     ○


 板垣信方は本陣まで肉薄する。さすがに本陣はそれなりに備えがあり、容易く突っ込む気は起きない。ただ、所詮は平地に構えた陣である。丘や山に構えた陣や城に比べたら柔いもの。とりあえずここで本陣に睨みを利かせつつ、味方の到達を待つ。それが最上であると板垣は判断した。村上を逃がさねば、勝利は消えない。

「馬は?」

「殿の獅子奮迅の活躍により、無傷で到達出来ております」

「……そうか。盤石だな」

 村上が逃げ出せば馬で背を突き、打ち倒す。あの信濃の猛将村上義清も、追い詰められたならここまでか、と板垣は思った。まあ、所詮は皆人間、世の流れと言うものを捻じ曲げることは容易ではない。如何に戦が上手くとも、時勢が傾けば敗れ去るのが世の常と言うもの。彼もまたそうであった、それだけのこと。

(このまま待つのも少しぬるい、か。首実験をして怒りを買い、相手を引きずり出す。引きずり出せずともこちらへ釘付けとすれば、それで良し)

 次をどうするか、板垣はそれのみを考えていた。

 それが――

「驕りだ、板垣信方!」

「村上義清!」

 敵本陣より姿を現した村上義清を見て、板垣らは臨戦態勢を取る。これで決着、驕りが何だと言っているが、正面でぶつかれば今の武田軍は――

「平地に、人は隠せぬと思うたか!」

「……隠、す?」

 村上が嗤う。板垣が振り向くと同時に、後方から悲鳴が巻き起こった。そこには泥にまみれ、憤怒の形相で攻め立てて来る者たちが、突如湧いて出てきたのだ。その数、百、いや、二百、いや、もっと、五百は優に超える。

「勢いは人を惑わせる。時に、優秀な武将すらも……敵味方問わず、だ!」

 本陣より、村上義清の本隊が駆け出してくる。

「殿! 撤退を!」

「……馬鹿な、こんな、策を、私が見抜けなかったと、言うのか」

「殿!」

 信虎ならば、あの時代の自分ならば、これを看破できていただろうか。勢いに任せた粗い戦、これは自分の戦ではない。信虎のものではない。

「私も、知らぬ間に、腐り、堕ちて――」

 ここで己が討ち取られたのでは、戦は瓦解してしまう。勢いを優先した軍勢、その歩みが停まれば、残るは体勢不十分の軍勢のみ。

 己の首が、味方の勢いを削ぎ、敵に勢いを授けることになる。

 それだけは――

「板垣信方、覚悟ォ!」

 馬に手を伸ばすも、その手が馬に届くことはなく空を切る。槍が彼の身体を貫く。幾重にも。敵の眼は、爛々と怒りに燃えていた。

「も、うしわけ、ござい、ませぬ、おやかた、さま。このいたがき、いっしょう、の、ふか、く――」

 血を吐き、『両職』が一翼、散る。

「殿ォ!」

 戦場の流れが、変わる。


     ○


 突破が出来たのは先陣を切った板垣のみ、少しずつ信繁らもおかしいと考え始めていた。板垣を通してから、むしろ敵方が強く抵抗するようになっていたのだ。最初は気のせいだと考えていたが、ここまで粘られてしまうと――

「典厩様!」

「……兄上も気づいたか。産川を跨いで来られたが」

 凄絶なる形相の村上方。何かがおかしい。

 これは――

「……村上の兵では、ない。彼らは、まずい⁉」

 今更信繁は気づく。劣勢に立たされようとも折れぬ尋常ではない士気の高さ。村上相手と思い駒を進めていたが、彼らは違うのだ。今まで甲斐武田が踏み躙って来た信濃の兵たち。だから、こんな無理のある戦い方が通る。

「待たせた! 今こそ、積年の恨みを晴らす時ぞッ!」

 混戦ゆえ、先まで見通すことが出来なかった。だから、信繁らは彼らの接近に気付くことが出来なかったのだ。それ以上に――

「板垣、殿!」

 村上義清率いる本隊の手によって『両職』が一翼、板垣信方が討ち取られていたことに、気付けなかった。彼らの槍に掲げられしは甲斐武田宿老の首。

 信濃勢の士気は、さらに跳ね上がる。

 狂気と紙一重の、凄絶なる表情で、

「駄目だ。無理に抵抗せず、本隊と合流を――」

 苛烈極まる攻めを見せる。諏訪で、伊那で、先の小田井原の戦いで、踏み潰されてきた者たちの逆襲。村上は彼らの恨みまでも戦術に組み込んだ。

 だから、緒戦の消耗をも諸兵に強いることが出来たのだ。

 勝つためならば、彼らは命をも捨てる覚悟でこの場にいたから。その覚悟が戦術に組み込まれていることを、武田方は読めていなかった。

「兄上!」

 来るな、見捨てろ、信繁は叫ぶ。

 この戦はもう――


     ○


 信繁が気付くのを遅れたこととは対照的に、距離が離れていた晴信の本陣は異変をいち早く察知した。晴信は笑顔から、徐々に表情を失い、最後には大きく歪み切っていた。まさか、あの板垣が後れを取ろうとは思わなかったのだ。

 だが、そう判断してから晴信の判断は早かった。あえて本隊を前に進め、先発している部隊を吸収後、態勢を立て直して堪え、弾き返す。

 それが武田晴信の考えであった。

「……負けを知らぬ不幸だな」

 村上はその様子を見て微笑む。勝っている時の戦、負けている時の戦、寄せている流れ、返す流れ、その時々の立ち振る舞いと言うものがあるのだ。

 勝っている時の武田は確かに手が付けられないほどであった。関東管領軍を打ち破った強さ、称賛に値する。されど、それは勝っている時の戦である。

 如何なる名将でも敗北は経験する。その苦さが、人を成長させるのだ。彼は不幸にも強過ぎた。ここまでの戦歴で負け知らずは相当稀有であろう。

 そのおかげである。そのおかげで、

「負ける時、欲をかけばどうなるか、知れ!」

 村上は彼の隙を突くことが出来た。

「何故だ、何故、止まらねえ!? 数の上じゃ、堪えられる戦力差だ。信濃では敵なし、山内上杉すら圧倒した軍勢だぞ! それなのに、何で――」

 圧倒的な勢い。勝ち続けてきた軍には神通力にも似た力が宿る。それは敵味方問わず、良し悪し含め惑わせてしまう者。

 されど、それは所詮まやかし。

 勢いとは、士気とは、脆いものなのだ。武田の強さを支えていたモノは、兵が勝利を疑わぬからこそ成り立っていた。それが宿老板垣の死で、確信が懸念に代わり、大きく力を失ってしまったのだ。これがもし、新参者である真田であれば負けたところで立て直せたかもしれない。勝とうとし過ぎて、板垣を出した。

 その判断の結果が、今である。

「御屋形様」

「甘利……俺は――」

「御父上もまた、幾たびの勝利を、幾たびの敗北を経て、虎と成ったのです。これは始まりでしかありませぬ。ここは、我らが引き受けましょう」

「待て! まだ、俺はァ!」

 『両職』が一翼、甘利虎泰は笑みを浮かべ、若き主君から背を向ける。こんな日を、彼らは待っていたのかもしれない。決して悲観などするものか。若き才能は育っている。今日、この敗北を糧にしてさらに躍進することだろう。

「甲斐の礎と成らん。皆に頼みがある」

「何なりと」

「甲斐のため、死ね」

「承知」

 甘利虎泰が信繁らと入れ替わるように、最前線へ躍り出る。気づけば勢いに押され、信繁らは陣形を崩しながら、本隊近くまで押し返されていたのだ。

「甘利殿!」

「順番があるのです、典厩様! 板垣殿の次は私、それが道理でありましょうが!」

「……すまぬ!」

 そのおかげで合流が出来た。晴信の選択は甘さだったかもしれないが、そのおかげで武田信繁という新たなる時代の一翼を生かすことが出来た。

「甘利、虎泰か!」

「村上よ、存分に語らおうぞ!」

「甲斐は若さを取るか……容赦はせぬぞ!」

「望むところよ!」

 宿老、『両職』の甘利虎泰が武田軍の殿を務める。殿とは死と同義。命を捨てる覚悟なくば、このような場所に留まることは出来ない。

 若造には荷が重いだろう。窮地にそれを強いることが出来るのは、長き経験と信頼関係があってこそ。甘利はそれが出来る男である。

 信虎時代、彼の四天王に数えられた男。板垣同様武田の屋台骨が一人。

 それが自ら、死を選んだ。

「見事」

「先に行っておりますぞ、『御屋形様』!」

 甲斐にとって重過ぎる双翼の犠牲によって、

「兄上!」

「御屋形様!」

「……俺は、俺、は」

 武田晴信とその本隊は少なからず犠牲を出しつつも、生還することが出来た。犠牲者の上では緒戦の優勢により、さほど大きな差はない。武田もそれなりの将は討ち取っている。だが、軍の最高位を二人も失ったのだ。

 その喪失は、算盤の上では測れない。


     ○


 板垣信方、甘利虎泰の死は武田大敗の報せと共に駿府にまで舞い込んできた。普段、如何なることがあっても酒や乱痴気騒ぎを欠かさぬ男が、正妻や側室、愛人を立ち入らせることもなく、自室で静かに酒を呷る。

「よう死んだ。本当に、俺やあの阿呆には過ぎた家臣であった」

 無人斎道有、否、今この時だけは武田信虎として、涙を流す。

「……無駄にはならぬ。俺様の、息子だ」

 板垣が少し上、信虎がいて、甘利が下に付く。武士の世界ではほぼ同世代、苦楽を共にしてきた。勝利の美酒も、敗北の泥水も、共に分かち合った。

 また二人、仲間が先に逝く。

 それは少し寂しく、苦いものであったのだ。

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