第捌拾漆話:河越夜戦、終結

 府中での決戦、本命である河越城の勝率を少しでも上げるため、彼らは半ば捨て駒のつもりで戦っていた。北条氏康の影武者として七千を任された北条綱高、中央で奮戦していた黒備を率いる多米元忠、二人はまさかの勝利に息を吐く。

 府中だけを切り取れば、よほど士気が低下していないと数の利で圧し潰されていたはず。長い戦いの決着である以上、士気の低下は大きな問題ではない。

 であれば必然、河越城の動向を掴んだ者が撤退し始め、瓦解していったのだろう。計は成った、そう考えて間違いはない。

 ゆえに彼らは、

「進めェ!」

 勝利の余韻に浸る前に、全軍を進撃させた。もし、誰か取りまとめ役が出てくれば、こんな薄氷の勝利すぐに覆ってしまう。それが出来ないと踏んで仕掛けた戦ではあるが、どちらにせよここで手を緩めるは甘い手にもほどがある。

 多米元忠は法螺貝を吹き、突き進めと兵に合図を送る。この戦いに撤退の合図など存在しない。留まるか、進むか、それだけである。

 北条軍はここより修羅と化す。

 窮地に立たされた鬱憤からではない。ここで圧勝しなければ後顧に憂いを残すこととなるのだ。勝つ時は勝ち切る。勝ち過ぎるのは良くないと二代目、氏綱が言った。それはその通りである。されど今は、そこに当てはまらない。

 ここでどれだけ大きく勝てるかが、のちの力関係に繋がるのだ。

 だからこそここからが気合の入れ所。出来る限り大きく勝つ。そして北条の武名を関東一円に刻み込むのだ。二度と歯向かう気など起きないように。

 徹底的に、追い込みをかける。


     ○


 逃げる長野業正、背後より微かに耳朶を打つ「勝った勝った」という声に顔をしかめていた。対峙し、改めて北条最強と名高き北条綱成の圧を知った。並大抵では止まらない。鎌倉幕府が健在であり坂東武士が猛威を振るっていた時代とは異なり、昨今は戦の際に陣頭に立って指揮する総大将などめっきり見なくなった。

 実際に総指揮の立場でそれはあまりにも無責任極まる行動であろう。流れ矢一つで死に、頭を失えば軍は機能停止に陥ってしまう。

 そもそも、長野からすれば関東管領上杉の当主が戦場に出なければならないこと自体、合理的ではないと常々思っていた。彼個人としてはいない方が負けても傷は浅く済み、無駄がないためそちらの方が好みであった。

 されど、ここは武士の本場、東国である。どうしても上に立つ者には力が求められてしまう。長野とて本来は戦働きが得意な男ではない。彼が成り上がった方法は婚姻を用いて血脈を広げ、伝手を設けて支持者を増やす政治屋である。

 それでもこうして戦には出ねばならぬ非合理が、彼は好きではなかった。

 先頭に立ち、味方を鼓舞し、群れの強度を飛躍的に向上させる理外の怪物どもが大嫌いであった。北条綱成はその一角、あれはもう止まらない。

「長野殿」

「まだだ。私如きを生かすためにぬしは切れん」

「山内上杉に必要な人物であれば、自明のことかと思われますが」

「それでも、ならぬ!」

 自らが捨て石となり、殿を務めると言わんとする上泉秀綱を長野は拒絶した。こんな戦で、この男ほどの武芸を消費して良いはずがない。しかるべき時に、しかるべき場所で、日の目を見ねば道理にそぐわない。

 己と上泉、山内上杉での価値は横に置き、その枠の外で言えば凡百の将である己よりも上泉が勝つ。ゆえに、殿を務めるべきは己である、と思う。

 ただ、己が立ち塞がったところで、あの怪物の足を止められるかは甚だ疑問であるが。勝勢に乗った綱成から、果たしてどう逃げ切るべきか。

 長野は考える。考えて、考えて、やはり答えは出ない。

 そんな友の姿を見て、上泉秀綱は腹を決めた。端から彼は武士として長野の方が上であると定めている。そして、こうも思う。

 己の間合いであれば、何とかなるかもしれぬ、と。

 相手がただの将として陣を構えていれば、上泉には何も出来ない。だが、槍の届く範囲であれば、より近くの剣が届く間合いであれば――

「長野殿」

「くどいぞ」

 試してみたい。決して口に出せぬ野蛮な考えであるが、どうせ散るならば自らの剣、その力を試して死にたいと思うのが剣士の性質であろう。

 そしてそれは――

「長野か!」

「な、殿⁉ 何故、こちらへ⁉」

 ひょんなことから叶うこととなる。


     ○


「……?」

 北条綱成は道の先に嫌な気配を感じた。彼自身、かなり突出していることもあり、付き従っているのは共に修練を積み、無尽蔵の体力を持つ黄備の精鋭のみ。あまり大きな数を相手に戦える戦力ではなかった。

 ただ、これはそういう感覚ではない。

「孫九郎様」

「……いるなァ、この先に」

「何がですか?」

「怪物だ」

 先に見えるは寡兵の一団。今の戦力でも充分に磨り潰せる、風に見える。だが、綱成の眼は中央で槍を携えている男に注がれていた。

 只者ではない。肌感覚でわかる。

「俺がやる」

「承知」

 勝った、いつもの言葉は気づけば口の端から零れ出なくなっていた。それだけで家臣らからすれば非常事態である。

「何者だァ、其の方!」

 言葉と共に綱成は槍を振るう。数多の戦場を粉砕してきた破壊力の槍、それを眼前の男は、まるで赤子でもあやすかのような手つきで、優しく軌道を変えて空を切らせて見せたのだ。そして、躊躇いなく槍から手を放し、間合いを潰しながら――

「油断されたな」

 刀を、一閃。

「ッ⁉」

 具足の隙間を通すような太刀筋、驚くほど繊細なそれは具足の上から肉を断つ。寸前で後退していなければ、骨にまで届いていたかもしれない。

 槍でも悍ましい雰囲気を出していたが、剣であればもはや別次元の怪物。魔性の眼は、爛々と好戦的に輝いていた。

「……名は?」

「上泉武蔵守と申す」

「なるほど、噂はかねがね、だ!」

 北条綱成は剣豪と言う人種に懐疑的であった。戦の世である。刀と言うのは戦場の花形ではない。戦に着目をすれば剣よりも槍の腕を上げた方が良いだろう。無論、技の深さは取り回しのしやすい剣に軍配が上がるのは彼も理解している。

 その上で剣に重きを置くことを、彼は怠慢だと考えていた。

 せめて太刀、昨今少しずつ広まりを見せる打刀などは、より戦場から離れた代物である。あれに傾倒するは戦場から逃げるも同義。そう考えていたのだが、いざ関東で名を馳せる『上泉』を前にして考えを改めさせられることとなった。

 これはもう――

「孫九郎様、槍で間合いを取りつつ、弓で――」

「やめだ!」

「え?」

「……?」

「戦に徹すれば殺すことは出来る。されど、うむ、それでは勿体ない。北条に来ぬか、上泉殿。この俺が居場所を用意して進ぜよう」

 あっさりと槍を引き、まさかの勧誘をし始める綱成。そのあまりの潔さに上泉は笑みをこぼしてしまう。山内にはいない器量、これが総大将ですらないのだ。山内が敗れ去るのも仕方がない、と納得してしまった。

「寛大なるお誘いなれど、お断りいたす」

「何故だ?」

「拙者が山内上杉の家臣であるがゆえに」

「不思議なことを言う男だ。今日で滅ぶと決まった家にしがみ付き、何の意味がある? もう再起の芽はないぞ、これより我らが徹底的に潰すからな」

「ならば、抗いましょう」

 ゆらりと柳のように刀を垂らす上泉を見て、綱成のみならず他の者まで肌で感じてしまう。あの男の間合いに入れば、ただでは済まない、と。

 静謐に、ただ断崖がそこに在る。

「山内の長野は討っておきたかったが……仕方ない。これを相手取るのは割に合わん。大事な虎の子を失いたくはない。俺も仕事が控えているしな」

「逃げるのですか?」

「おう、逃げる!」

 やはり、器量が違うと上泉は苦笑する。この男が山内にいれば――いや、おそらくあの狸共が全力で潰そうとしただろう。山内に限らず上杉とは、そういう家である。それを繰り返し、絶大な勢力を目減りさせ、今に至るのだ。

「ではな、上泉殿。心変わりしたならいつでも声をかけてくれ。その剣は宝だ。新九郎ならば、絶対に戦場でなど使わぬぞ!」

「……覚えておきます」

 あっさりと転進し、別の敵を探しに行った綱成ら黄備。その背を見て上泉は自らの陣営が敗れた理由を、これでもかと見せつけられている気分であった。

 最後の言葉、揺らがなかったと言えば嘘ではない。

 只一瞥、それだけで己を見抜いた男と共に過ごすのは、どれほど甘美なことであろうか。されど己もまた山内陣営で城を任された身である。

「街道は進むも戻るも死路。大変ですが敗残の兵らしく、獣の道を征くとしましょうか。拙者が先導しますので、ついてくるように」

「ハッ!」

 武士の分別が、男にこの選択を取らせた。

 たぶん、悔いはある。


     ○


 北条は徹底的に追撃を敢行した。二度と歯向かう気も起きぬよう、徹底的に攻め立て、多くの武士の心をへし折った。時代に轟く大勝である。しかしこの戦、筆まめな北条にしては珍しく記録が残されていない。その理由は諸説ある。河越夜戦自体無かった。上杉朝定が病没したため連合軍は戦うことなく解散した。戦いがあったとしても極めて小規模なものであった。様々な説があるだろう。

 ただ――

「今川の狙い通り、か」

「おそらくな。皆には悪いが、浮かれる気になど到底なれぬ」

「そうだな。感状は今川を下した後に受け取ろう」

「すまぬ」

「いいさ。とにかく俺たちは、勝ったのだから」

「ああ」

 扇谷上杉の当主が散り、そこから関東の勢力図が一気に塗り替わり、北条が圧倒的な速度で版図を広げていくのは、歴史的な事実である。

 何かは在ったのだろう。時代を変える、何かが。

 それを残さなかった理由があるだけで――

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