第漆拾伍話:掌の上

 長久保城を攻囲していた今川軍に対し、突如北条軍が城から出てきて攻撃を開始した。傷を負うことも厭わぬ総大将、北条氏康を先頭に赤備の北条綱高、黒備の多米元忠が続く。やはり彼らが先頭に立つと、軍勢自体の勢いが違う。

 質の高い量をも凌駕する、圧倒的なる個が生む質。

「……御屋形様」

 雪斎はその動きから何かを察する。

「ああ。退くとしようか」

 今川義元もまた急戦の意図を察し、あえて後退の指示を飛ばす。それによって長久保城付近に流れる川にかかる橋を明け渡すことになるが、

「ぐ、潔し!」

 赤備の北条綱高は顔をしかめる。一点突破、組み合ってくれさえすれば、北条軍にも一発逆転の目があった。勢いはこちらにある。城を包囲するということは、戦力を分散するに等しい。無論、こちらも地の利を捨てるわけでリスクはあるが、それでも勝敗を覆すには、リスクを取るしかない。

 だが、今川軍は組み合ってすぐ、後退を選んだ。

 迷いなく、整然と――

「とど、けェ!」

 決死の黒備、多米元忠は叫ぶ。槍を振り回し、力任せに退く相手を追う。しかし、差が縮まらない。撤退すると言うのに、殿を務める者たちはどっしりと北条軍を受け止め、しっかり時間を稼ぎ役割を果たすのだ。

 普通の軍ならば、撤退となれば多少の動揺があり、少なからず指揮系統が乱れ兵たちは離散する。その混乱こそが追う側の利となる、はずだった。

「なぜそこまで尽くす⁉」

 敵兵の槍、突きをわきに抱え受け止め、氏康が問う。

「……当代になってからこれまで、御屋形様が約定を違えたことはない。ここで死しても、家は残る。己が死の分、家が栄える。それだけよ!」

「……そうか」

 氏康は返しの一突きで、相手の喉元を貫く。具足の隙間かつ、相手を必ず死に至らしめる部位。ここは戦場で、手心など加えられるはずもなし。

「届かん、か」

 今日は局所的に見れば快勝と言える。相手から橋を奪い、攻囲を大きく後退させた。だが、それだけでしかないのだ。この突貫で攻囲が解けたわけではない。相手が離散するでもない。退いて、立て直し、少し広く相手を包む。

 それだけ。大局は、変わらない。

 そして、北条には時がないのだ。これを繰り返せば勝てなくもないが、繰り返すだけの時間がない。こうしている間にも、両上杉家が河越城を落とさんと人を集めているはず。あの両家が手を組んだ以上、呼応する者は、多い。

 下手をすれば、いや、下手をしなくとも――

「……クソ」

 今川は、戦う前から長久保城を取ることも、氏康を討ち取ることも、必要のない状況を構築していたのだ。彼が河東地域に進軍してきたのは、氏康を引っ張り出して戦う、戦い続ける、それだけが目的。

 大敗以外は、すべて今川の勝ち。

 戦の広さが違う。戦う前から、勝負は決していた。

 兵の練度、彼らの今川家に対する絶対の信頼、前提条件にも大きな隔たりがある。今川家自体の格も、守護家としても別格であるが、そのような威光は下々の知るところではあるまい。今川義元と言う個人が、信を得ているのだ。

 領民を不自由なく食わせ、約定を違えぬ。

 小氷河期とも言われるこの時代、その当たり前が出来ている国の何と少ないことか。その当たり前を徹底できる時点で、そもそも勝負になっていない。

 まさに格が違う。今は、この結果を刻むしかない。

「ここまで、か」

 北条氏康は歯を食いしばり、今日と言う日を刻む。

 今川義元と言う巨人に、勝利し、敗れた日を。


     ○


 一日遅れで弟から晴信へ報せが届く。

 山内上杉と扇谷上杉が手を組み、天地が引っ繰り返った、と。

「……なるほど、余裕があるわけだ」

 昨日、北条軍が見せた意地、それに対しやけにあっさりと退いた今川軍、両軍の動き、そこに込められた意図の全てを把握し、武田晴信は戦慄を禁じ得ない。

 ことここに至り、勝利を掴もうと意地を見せた北条軍。

 そしてそれ以上に――

「初めから負ける要素がねえ、か」

 関東全てを掌の上で転がした、今川義元という怪物。両上杉を動かすだけには飽き足らず、あの男は僅かな亀裂すら見逃さず、本来北条側であり彼らの錦の御旗であるはずの古河公方すら抱き込んでいたことが、のちにわかる。

 つまり、この時点で北条は完全な死に体へ追い込まれていたのだ。

 彼らがそうと知る前に、誰もが知らぬ間に――

「元々、関東に北条の入り込む隙間があったのは、ご当地公方どもや上杉連中の仲違いがあったからだ。手を変え品を変え、ここまで北条は上手くやって来た。陣営を渡り歩き、勢力を拡大し……大したもんだ」

 二代に渡る偉大なる足跡。されど、その代償は小さくなかった。人間は妬み、羨む生き物である。例え北条と敵対していなくとも、その躍進を妬ましく思っている者は多い。新参者の苦しさ、小さな妬みも積もれば巨人と化す。

 要は、北条は勝ち過ぎたのだ。

 初代、二代が積み重ねてきた勝利の負債を今、三代目が背負う。

「終わったな。今川はここで、連中の足を止めているだけでいい。和睦も跳ね除け、退く姿勢が見えたら攻める、それで北条は終わりだ」

 絶望の挟撃。この局面を造られた時点で、晴信ならば死を覚悟する。本拠地である小田原に引きこもり、耐え忍ぶための準備を始める、かもしれない。少なくとも、ここで今川とじゃれ合っている暇はなくなった。

「しかし何故、今川殿は我々を呼びつけたのでしょうか?」

「……三代目を引き出すため、か。だが、確かに――」

 家臣からの問いに、晴信は考え込む。甲斐武田を引き出すまでもなく、おそらく今川義元直々に河東に打って出たならば、氏康もまた動かないわけにはいかない。ハッタリが必要な局面とも思えず、さりとて当初晴信が考えていた和睦による決着が必要な局面とは思えない。何故ならもう、勝っているのだ。

 勝った戦を、わざわざ引き分けにする者はいない。

 このまま北条を潰せば、河東どころか箱根も、小田原も、手が届く。上杉には武蔵を渡して、発起人である今川が相模を取る。

 この絵図を、わざわざ崩さないだろう。

 三国の王となるまたとない好機である。晴信ならば手心など加えない。それどころか両上杉に足元を見られぬため、急ぎ圧し潰そうとすらするだろう。

 だが、

「……あくまで、包み殺す。随分手緩いが……何故だ?」

 ここまでの今川に急ぐ様子は、見えない。

「御屋形様! 北条から使者が参りました!」

「北条から?」

「今川殿へ和睦の橋渡しを頼みたい、と」

「条件は?」

「こちらに」

 晴信は使者が持ってきた書状を手に取り、中身を見る。

「二代目が死に物狂いで取った河東を無条件で引き渡す、か。昨日今日で素早い決断だ。まあ、これしかねえわな。が、遅過ぎる」

 全てが遅過ぎる。北条の活路は、開戦前に今川が差し向けた使者の要求を受け入れ、河東を引き渡して和睦する。これしかなかった。

 今更、今川がこれを受けるとは思えない。

 だから、出来もしない橋渡しなどわざわざ己が――

「……御屋形様? 使者を追い返しましょうか?」

「……ああ。俺も、無駄なことに骨を折りたくはねえ。無駄なことなんだ。和睦なぞ、どう考えてもありえねえ。ありえないのに――」

 晴信は破り捨てようと思っていた書状を眺め、文面に目を落とし、しばし考えこむ。ありえない話であろう。この局面を、完勝の局面を、捨てるなど。

 相模を得る機会。豊かな土地である。甲斐が喉から手が出るほど欲しい海もある。取らない理由がない。欲さぬ理由がない。

 どう考えても、そうなるのに――

「……使者に伝えろ。三代目の顔は立ててやる、とな」

「御屋形様⁉ 何故ですか⁉」

「勘だ」

「は?」

「道理にそぐわぬが、奴の戦がそう言っている。そんな気がした。……使者にはあまり期待するなとも伝えておけ」

「しょ、承知しました」

 晴信は髪をかきむしり、顔をしかめていた。合理的ではない。美しくもない。理解できない。それでも何故か、考えれば考えるほどに――

(……あの男の断る絵が、見えん)

 武田晴信は底無しの沼に引きずり込まれているような感覚に陥ってしまう。自分が、氏康が、見えぬ深淵へと引っ張られているような、そんな気配が。

 意図が読めない。それなのに、意図に沿っているような、気持ち悪い感覚。

 それでも不可解な確信があった。


     ○


「この条件ならば、受けよう」

 今川義元が微笑みながら、和睦を受け入れる確信が。

「何故だ?」

「おや、橋渡しをしてくれた武田殿がそれを聞くのか。不思議なことだ」

 くく、と笑う義元を見て、晴信は顔をしかめる。

「このまま戦を継続するだけで、河東は必ず得られる。相手を押し込めば相模全土だって取れるだろう。それだけの力がありながら、何故そうしない⁉」

 声を荒げる晴信を見ても、義元は穏やかに微笑むばかり。まるで童のように接されているようで、晴信は苛立ちを抑え切れなかった。

 遥か上から、覗き込まれているような気がしたから。

「今川が相模を治めることに、私はさほど利を感じないのだ」

「豊かな土地だぞ」

「駿河の方が勝る。と言う冗談は横に置き、両上杉が北条を滅ぼせば、私は相模を取るよ。両上杉家には武蔵で我慢してもらう」

「……北条なら取らない? 理解出来ねえ」

「私はより自国が安定する道を模索しているだけだ。荒らす要因を、我が領域に立ち入れさせたくもない。それだけなのだ」

 義元は、北の方に視線を向ける。晴信はそれを北関東の方であると考えたが、両者の間でそのすり合わせが行われることはなかった。

 する必要もなかったのだ。

 いずれ、彼らは嫌でもそれを理解することになるから。

「橋渡し役、とても助かったよ、武田殿。私はどうやら借りを作ってしまったようだ。いずれ、きっちりお返しさせて頂こう」

「……期待、しているぜ」

 当初の目論見通り、今川、北条、両家に借りを作ることが出来た。見た目以上に今回の武田は美味しい思いをしたことになる。

 だが、晴信の顔は曇ったまま。

「私はね、期待しているのだよ。武田にも、北条にも」

「何の?」

「私と共に、東国を栄えさせる仲間として」

「……そうかい」

 うさん臭い微笑み。晴信にはその仲間と言う言葉が、何故か盾と聞こえた。自国を守る盾として、末永く在って欲しい、と。

 何に対しての、それはのちに嫌と言うほど、知る。

 武田はもちろん、それ以上に北条が、身をもって知ることとなる。

 ここで、生かされた理由を。


     ○


 北条は今回の和睦、通ると思っていなかった。武田に跳ね除けられた後、今川本人と幾度も交渉を重ねる中で、何とか転進する隙を得たい。

 箱根までは――その覚悟はあった。

 だが、結果として今川は当初の姿勢を崩すことなく、河東以上を欲しがらなかった。信じ難いことである。誰よりも北条自身が、意図を読むことが出来ずに困惑してしまう。北条氏康は晴信が感じたものと同じ気持ち悪さを感じていた。

 この幸運、実は高くつくのではないか、と。

 十月下旬、武田の橋渡しにより停戦が成立。

 そして、十一月頭には僧侶として太原雪斎が仲立ちをして、正式に誓詞を交わし、和睦が成立した。絶体絶命の窮地を、敵である今川の手によって救われた形。大きな借りであろう。もはやしばらくの間、敵対など出来ようはずもなし。

 それでも北条にとっては渡りに船なのだ。

「……感謝いたす」

「なに、戦が終われば敵も味方もない。同じ東国を盛り立てんとする者同士、是非頑張って頂きたい。期待しているよ、三代目新九郎殿」

「……この借りは、いずれ」

「ふふ、二重の意味に聞こえるが、それでも構わぬよ。そうなればまた、受けて立つまでのこと。その日を、楽しみにしている」

 巨人。氏康は歯噛みしながら頭を垂れ、それを見ている晴信もまた顔を歪める。あの男には今の自分たちが足りぬモノで充ち満ちている。戦場でならまだ届かぬこともないが、そもそも戦う前にこうして盤石の態勢を整えられたなら、どうしようもない。彼らは知った。勝つとは、こうやるのだと。

 巨大なる敵から、学ばされた。

 大いなる学び、痛みを以て刻む。

 その日、北条は長久保城を今川へ引き渡し、河東地域を正式に譲渡。これにより二代に渡り今川家との争点となった河東地域は、再び今川の手に戻った。

 父が奪い取った土地を、苦渋の決断で譲り渡した北条であったが、判断自体は素早いものであった。集結しつつある両上杉に圧される形であったが、それでも氏康の見切りの速さは見事なものであっただろう。土地に固執し、家ごと沈む者たちのなんと多いことか。その見切りの速さがあったからこそ、今川は和睦を受け入れたのかもしれない。この窮地を、氏康ならばしのげるかもしれない、と。

 今川義元がそう見込んだから、先が生まれた。

「どうにも歯切れの悪い終わりですな」

「まだ何も終わっておらぬぞ、多米の」

「それもそうですな。御本城様、孫九郎殿は我らが到達するまで、持ちこたえられるでしょうか? 両上杉が立つとなれば、おそらく関東諸侯の大半が――」

「持ちこたえている。あの男が負ける姿を、私は見たことがない」

「……ですね」

「信じましょう。我らが五色備、最強の男を」

 河東を明け渡し、細かな差配は全て長久保城の北条宗哲(のちの北条幻庵)に任せ、北条軍本隊は急ぎ転進し、五色備、黄備の北条綱成が守る河越城を目指す。

 彼が城を固めたなら、絶対に負けぬと信じて。

 と言うよりも今の彼らは、それを信じるしかなかったのだ。

 今川対北条の前哨戦が終結し、ここより関東の命運を占う大一番が始まる。

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