第漆拾肆話:双国の王

 天文十四年(1545年)七月、今川軍は富士川を渡り善徳寺に布陣する。現在の静岡県富士市に東海道の雄がでんと構えたのだ。急がず、慌てず、優雅に、されど戦いの意思だけは明確に示す。

 だが、この時点では北条もとうとう来たか、とむしろ意欲的ですらあった。今回の争点である河東地域に関しては、先代当主の北条氏綱が今川から奪い取った土地である。当時は義元も家督相続したばかり、地盤が固まり切っていなかったところもあり、奪われたことを良しとしていたが、安定すれば取り戻すため動くのは目に見えていた。ここを征し、怪しい気配が漂う北関東に注力したい。

 だからこそ、ある意味ここでの戦いは今川とだけであれば、北条にとっても渡りに船であったのだ。やってやる、北の抑えとして最も信頼する家臣、北条綱成を河越城に配置し、残る戦力は駿河方面へ差し向ける。

 河東地域の安定、今川家との格付けを済ませたなら、今度は山内上杉ら旧勢力との戦いが待ち受けている。絶対に負けられない戦い、そう思っていた。

 そう思っていたのは、北条だけであった。

「御屋形様、甲斐の守護殿が参られました」

 今川義元が懐刀、九英承菊改め太原崇孚、通称雪斎が姿を現す。

 その彼が招き入れたのは――

「おや、随分と身軽な守護殿だ」

 八月上旬、善徳寺で住職と囲碁に興じていた義元の前に現れたのは、甲斐の守護武田家当主、武田晴信その人であった。

「呼びつけておいて、自分は坊主と囲碁とは優雅なことだ」

「呼んだのは武田軍、です。御当主自らが出張るほどではありませんよ」

「そうか? 『橋渡し』は、いるだろ?」

「彼の胆力次第、でしょうが」

「相変わらず嫌な男だな。一々相手を計ろうとしやがる」

「嫌な男とは……私は義理の兄ですよ、太郎殿」

「ハッ、あの男が勝手に娘を送り付けただけだ。今の甲斐には関係ねえよ」

 相変わらず父に対しては敵意に満ちている。この辺りが晴信の隙だな、と義元は心の中で苦笑していた。まだまだ青い。

 彼が父の幻影を乗り越えるのは果たしていつになることやら。拒絶し、追い出してしまったのは晴信にとってあまり良いこととは思えなかった。直接乗り越える機会を永遠に逸したも同然であるから。

「軍勢は?」

「八月半ばには揃う」

「結構。上々です」

「余裕だな。今回の俺たちは張子の虎、戦力としては数えられないってのに……なにか、俺以外の仕掛けでもあるのか?」

 晴信の探るような眼を見て、義元は静かに微笑む。

「多少ですが」

「多少、ね。ま、今回は高みの見物をさせてもらうわ。二国を治める者の戦、じっくり観察させてもらうぜ、お義兄様」

「ご自由に」

 この時、武田晴信は今川義元の描いた絵に気付いていなかった。いや、気付けるわけがなかった。その絵の、あまりの大きさに。


     ○


 大石寺に陣を敷いた武田軍は高みの見物と洒落こんでいた。晴信は今回、今川方に加わるも戦闘に参加する意思は無かったのだ。

 理由は政治、この晴信と言う男は全てに置いて父を上回らんと示すため、外交での優もここで示さんと考えていたのだ。やるべきことは北条と今川の橋渡し。今回、おそらく戦い自体は今川が勝つだろう。陣容を見て、何よりも雪斎ではなく義元自らが指揮を執っている。こうなると中々、負ける絵が浮かばない。

 あの男の懐の深さは、様々なやり取りの中で嫌と言うほど理解していた。晴信にしても、勢いよく父を追放したは良いが、甲斐の守護だった男をその辺に放るわけにもいかず、結果として義元に借りを作る羽目になった。

 そういう意味であの追放騒動、誰が得をしたかと言えば、こうして今の武田と蜜月を築くことになった今川であったのかもしれない。

 戦うことなく、男一人を受け入れただけで貸し一つ。

 こうして河東くんだりまで出向くことになったのだから、武田としては手痛い出費であり、今川としては得した、と言うことになる。

 しかし、利用されっぱなしと言うのもつまらない。

「伊勢の三代目があの男にどこまで迫れるか、だな」

 今川義元と言う男は戦いを好まない。と言うよりも、戦わずに勝つのを美徳としている。実際に人材の面から言っても戦争と言うのは無駄が多く、そのために失うものは多い。外交でカタを付けてしまえばそちらの方が効率的。

 だから、今回も戦いはすれど勝ち切る気など無い。

 相手を力で追い詰めるようなやり方はしない。あくまでゆるりと、じわじわと、真綿で締め付けるように、そう晴信は思っていた。

 だが、

「……マジか」

 結果は予想外、今川義元の完勝であった。

 今井狐橋を決戦の場とした北条軍は総大将を北条氏康、その彼を補佐する形で五色備が赤備、北条綱高、黒備、多米元忠という北関東への備えに綱成を割きつつも、今の北条家が持てる戦力を質、量共にぶつけてきた形。

 当初は優勢だった北条方であったが、次第に何故か形勢が傾き、気付けば陣容が悪形となり、最後は今川方が押し込んで北条が敗走。

「……クソ強いじゃねえか、お義兄様、よォ」

 北条は悪くない。ただ、今川が強過ぎた。こればかりはもう、練兵の段階から差があったのだろう。あらゆる状況に対しての引き出しが軍レベルで違う。指示を受けての反応が、百姓との混成軍とは思えない。

 これぞ今川家の地力。武士は当然、百姓に至るまできっちり戦い方を学ばせている。さすが東の都駿府を抱える大大名である。

 しかも、

「普段は承菊、いや、雪斎に名を変えたんだったか……あのジジイが手綱を捌いていたはずだが、義元が率いれば一段、上がるな」

 総大将がいつもと異なり、今川義元であり一段と全体の空気が引き締まる。

 今まで晴信は逆に、雪斎の方が現場指揮は上だと思っていた。だからこそ、義元はあまり現場に出ず、雪斎が矢面に立つ状況が多かったのでは、という疑いを持っていたのだ。それはきっと、武田だけではない。

 北条もまた同じだっただろう。多少なりとも油断はあったかもしれない。

 それを抱くようにすら、誘導していた。

 全ては、勝つべき時のために。

「……北条も強かった。氏康はもちろん、赤いのと黒いの、どちらも光るものがあった。負けるとは思わねえが、勝てるとも言い切れねえ」

 高飛車な晴信をして、互角と思わされた北条軍。

 その上を行った、今川軍。

「……西に余力を残して、これかよ。今川義元」

 こうなってくると織田との一戦、勝つ気があったのかと疑いたくなってしまう。今の今川が、尾張の織田如きに敗れ去るとは思えなかった。国力、人材、織田軍を知らぬ晴信であったが、今の北条軍を弾き返す今川軍が負ける絵が浮かばない。

 そもそも己ですら、父ですら――

 破竹の勢いで進撃する今川軍。一度崩れた北条軍はまともに抗うことも出来ず、押し込まれていく。搦め手ばかり使う男と言う印象は、敵である氏康も、味方である晴信も、完全に立ち消えた。

 どちらも使える。過不足なく。

「強い」

 完璧に寄り添う男、今川義元。

 敵の心も、味方の心も、へし折るような圧勝。

 同年九月、吉原城を自落させ、そのまま長久保城を包囲する。長久保城には初代北条早雲の末子であり、二代氏綱の弟である北条家箱根の要、北条宗哲が座すも、押し込まれた三代目たちの顔色を見て、彼もまた言葉を失う。

 押し込んだ今川義元は悠々と攻囲し、

「さて、そろそろ、か」

 微笑みながら、先を見通す。

 優勢であっても足並み乱れぬ今川軍。味方である武田も驚く徹底された規律と一糸乱れぬ動き。戦いに勝利しても浮かれない。普通の軍ならば勝った後の乱取り(略奪)、これが当たり前で、百姓などこのために参戦しているようなものなのだが、今川の軍勢はただの一度も、自落した吉原城も含め、乱取りは行っていなかった。

 そうする必要がないほど、駿河は、今川家は、彼らを食わせている。だから、品のないことを、遺恨を遺すような真似をするな、と言うのだろう。

 これが出来るのだ、今川家ならば。

 二国を治める東海の覇者なればこそ、この軍は成る。

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