第漆拾参話:時同じくして――

 長尾景虎は墓の前で酒を飲んでいた。その貌は何処か虚しそうで、誰も寄せ付けぬ空気をまとっている。まあ、実際に黒田を討った彼に軽々しく近づこうと言う者はそれほど多くないだろう。終わってみれば半年もかからず、大義を得た上で黒田一門を皆殺しにしているのだ。その後、上杉定実の差配で山岸氏一門が黒滝城へ入ったが、当然そこに黒田の縁者など一人もいない。

 そもそも、柿崎家に嫁いだ娘のように黒田ではない者以外は全て、景虎が踏み潰し切腹させたのだから当然のこと。

 ことの顛末を知る者はもちろん、漏れ伝わっている話を聞くだけで皆、景虎を怖れか細い野心などへし折れた。話を聞いても折れずにいるのは北の連中ぐらい。

 それとて今回の一件で大きな抑止力と成っただろう。

 いつ黒田のように行動を起こすかわからぬ状況から、静観を決め込ませる程度には脅しと成ったわけである。今回の一件は。

「私も一つ、ご相伴に与ってもよろしいですかな?」

「義旧か。好きにせい」

 背後に現れた金津義旧を一瞥し、景虎は頷く。

「はっ」

 彼の怒りの理由を知る者は少ない。ただ力を示すために兵を興したと大勢が見なしており、周囲は勝手に晴景と景虎の兄弟による決戦があると考え始めていた。結局対立構造に持っていきたがるのだから、本当に救いがない時代である。

「しょぼい墓よな。もう少し何とかならんものか?」

「嫡男とは言え弥太郎は家督を継ぐ前でしたので。これ以上は角が立つかと」

「ふん。俺には理解出来ぬな。俺ならばババアの分だけでも御殿のような墓を建ててやると言うのに。こういう時、他人は何も出来ぬな」

「お気持ちだけで十分ですとも。あれも喜んでおります」

「……ふん」

 飲んでも飲んでも潤わぬ。渇き、飲み、やはり渇いたまま。

 いくら飲んでも酔うことも出来ず、ただ喉元を過ぎゆくのみ。

「しかし、ぬしは老けたのぉ。弥太郎もババアも、もう気付けんのではないか?」

「さすがにそこまでは、無いと思うのですが」

「気骨は萎えたか」

「……はい」

「ぶは、父上が聞けば驚くだろうな。あの金津義旧が、海千山千の男が、家族を失ったぐらいで、折れてしまったのだから」

「……先代はきっと、それほど驚かぬでしょう。まだ平三様が幼き頃の話、聞かれましたかな? 乳飲み子の頃のことですが」

「……母上から聞いた」

「同じですよ。立場が同じなら、先代もまた折れたやもしれませぬ。折れずとも心は傷を負いますよ、必ずや」

「そんなタマかねえ」

「私はそう思います。今は、さらに強く」

「……そうか」

 長尾景虎激怒の理由を知るのは、それこそ直江文、甘粕持之介ぐらいであろう。本庄実乃辺りは金津の様子を知るが故、察している所はあるかもしれないが。

 それ以外は誰も知らない。精々が話を聞いた長尾綾ぐらいか。

「姉上は馬鹿みたいに号泣しておったな。遺体を見ておれば、ぶはは、卒倒していたやもしれん。あれで意外と気弱と言うか、何と言うか」

「あれが普通です。男女とも、本来は戦場でゆるりと慣れていくものですから」

「そうかァ?」

「普通は、です。残念ながら平三様には当てはまりませぬ」

「ぶは!」

 景虎は大笑いして、酒を呷る。金津もまた合わせて飲む。

「ああ、館の件はすまんかったな。勢いで燃やしてしもうた。兄上に頼み、新しいのを用意させるゆえ、今しばらく待ってくれ」

「……気を遣わせましたな」

「勢いじゃ勢い。俺は何にでも火をつけるのが好きなのだ。ぶはは!」

 そんなことしないのは幼き頃より世話をしていた金津家が一番よく知っている。景虎がそうしたのは、この館を見れば嫌でも女房の遺体を思い出してしまうから。この春日山で起きた記憶を呼び覚ましてしまうから、だから焼いたのだろう。

 せめて安らかに、思い出は、記憶の中だけに。

「改めて、私の愚かな願いを果たしてくださり、感謝いたします」

「俺がしたことだ。ぬしには関係が無い」

「私の愚かさが、御兄弟で国を割ることとなってしまった。猛省しております。悔やんでも悔やみきれぬ、愚行でありました」

「だが、ぬしは同じ状況に立てば何度でも同じことをする。俺もそうだ。ゆえに、何も悔いることなどない。そもそも、俺と兄上で割れずとも、上杉と長尾で割れておったし、定実如きでは兄上を下せぬゆえ、結局最後は俺が立てられたであろうよ。どうしても越後の連中はな、安定よりも争いを望むらしい」

 長尾景虎にとって最も理解出来ぬことがそこにあった。兄と自分を並べて、君主として勝っている部分など何一つないのだ。守護を傀儡とした守護代に求められるのは王としての資質。将としてのそれではない。

 そんな当たり前のことを、この地の者は誰一人理解していない。まあそれは越後に限らず、この時代に生きるほとんどの者が理解出来ていないことなのだが。

「変わらぬよ。結局時代が、ぶは、俺を選ぶ。なれば俺は存分に、俺を示すまで。教えてやらねばならぬだろうが、俺を選んだことの意味を」

 力の化身、戦いの天才。それを上に据える意味を、今の越後は知らない。

 彼が知らしめるのだ。二度と間違えぬように。

「……平三様」

「今は休め、義旧。だが、まだ働いてもらうからのぉ。跡継ぎがおらんのだ、隠居は遠のいたと思え。俺はこき使うぞぉ」

「……承知。早急に養子縁組をし、跡継ぎを用意いたします」

「ぶはは! その意気ぞ!」

 長尾景虎は立ち上がる。いつまでも思い出を振り返っていられるほど、ゆとりはない。これからしっかり算段を組まねばならぬのだ。

 兄と共に。戦いたがりの馬鹿共からそれを取り上げるために、兄なりの最後の奉仕と言うところなのだろう。景虎からすれば不服だが。

 戦いたがり共など戦わせればいいのだ。国を割って、半々で殺し合って、傷の一つでも負わねば学ばない。まあ、それでも、それがわかってでも、穏やかな決着を望むのが兄のやり方。それが彼の守護代としての、最後の、矜持である。


     ○


 天文十五年、四月。夜明け前のことであった。

 長尾景虎は一旦栃尾に戻り、機を待つことと成った。日増しに高まる力無き守護代、長尾晴景に対する退陣せよとの雰囲気。雰囲気と言うのは馬鹿にならぬもので、一度流れが生まれると簡単には変えられない。

 いずれ、何かしらの決着は必要なのだろう。晴景も、景虎も、その辺りは承知している。その流れを無理にせき止めようともしていない。

 彼らが見据えているのはその先、である。

 しかし今は――

「どうしました?」

 朝日が昇ると同時に、景虎は何故か南の方へ視線を向けていた。様子がおかしいため、直江文が問いかけるも返事はない。

 ただ太刀を握りしめ、ほんの少し、嗤う。


     ○


 時は遡り天文十四年、相模の獅子は追い詰められていた。

 切っ掛けはまたしてもあの男、駿河の今川義元。彼が以前、先代北条氏綱が奪った河東地域の返却を以て両家の仲を改善、つまりは和睦しよう。との交渉があった。もちろん、何の引き換え条件もなくただ返せと言われて、はいそうですか、と返すようでは弱気と見なされ家臣の反発を招くだろう。

 当然、北条氏康はそれを断った。

 だが、それは今川義元なりの最後通告であったのだ。

 交渉からしばらくして、今川家が動き始めた。それ自体は読んでいたが、そこにまさかの甲斐武田が加わったのだ。同年、信濃守護小笠原の助けを得た信濃の有力国衆高遠を滅ぼし、信濃守護何するものぞ、と勢いに乗る武田である。もちろん主力は信濃方面におり、晴信自らが率いる軍ではないのだが、そうであったとしても今の甲斐は晴信が抜擢した有能な若手たちによる人材の宝庫である。

 厄介な、と氏康が顔を歪めていると――

「御本城様……天地が、引っ繰り返りました」

「……な、ん、だと」

 その動きに合わせ、犬猿の仲であった山内上杉、扇谷上杉が手を組み、連合軍を結成したとの報せが、氏康の下へと届く。

 あまりにも出来過ぎた動き。当然、何者かの見えざる手が入っている。

「今川、義元ォ」

 その手が誰かなど、調べるまでもない。

 あの男は自らが矢面に立つこともなく、全てを支配してきたのだ。この盤面が創れるのであれば武田の存在など必要ないだろうに、あえて引き込むことで念には念を入れている。いや、これはおそらく――

「全てが思い通りになると思うな、義元よ」

 北条氏康は今川が武田を入れた意図を理解しつつも、河越城に詰めるは北条綱成、己が一番信頼する北条家最強の男を信じ、氏康は今川と武田の連合軍を相手取る。ここで勝ち、返す刀で両上杉家を両断する。

 出来るはずだ、北条家ならば。

 新九郎の名を背負う己ならば、無茶でも何でもやって見せねばならない。勝ってこそ、初代、二代、彼らに顔向けできると言うもの。

「北条家の力を示せェ!」

 三代目、北条氏康の号令が轟く。

 これより始まるは、関東の命運を占う最大規模の戦い。

 日本三大奇襲の一つ、河越夜戦の前哨戦、である。

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